ゴーン・ガール/デヴィッド・フィンチャー監督(2)

前回に引き続き「ゴーン・ガール」をネタに語ってみたい。「『役割を演じる』ということについて」と題して、ちょっとお付き合いを。本作のストーリー展開の背景に、メディアの強大な力がある。各々の人物がメディアの力をうまく利用しようとする。これは個人的な見解ですが、メディアって究極的には「現実」に近づくことはできないと思う。メディアって、どうしても白か黒かという判断を含みに、記事を出していく。ある意味、なにがしかのステレオタイプは免れない。ところが真実という奴は、限りなくグレーに近い。それをちゃんと記述するためには、たくさんの言葉が必要であり、言葉が煩雑になればなるほど、視聴者(読者)は敬遠してしまう。そう、記事というのは、分かりやすくなければならない。そこにメディアの限界があり、逆にメディアはその宿命的な限界に挑戦する責務を持っていると思う。

「妻殺し」の疑いをメディアから煽られ、窮地に立ったニックが起死回生の一手を打つ。つまり、逆に「僕はダメな夫で申し訳ない、でも妻は殺していない」という愚直な言葉をメディアに投げかける。これはあくまでも「戦術」としてだけど。

僕は人殺しじゃないけれど、いい人間でもない。素晴らしい妻がいるのに、悪い夫でした。誓いを破った。(中略)僕はろくに取り柄もない、つまらない男でしたが、彼女は輝いていた。(中略)彼女は生きています。(カメラに向かって)エイミー、愛してる。君は誰よりも素晴らしい。僕は君を苦しませた。「お仕置き」が必要だ。戻ってくれるなら、日々、君への償いに生きよう。君に誓ったような男になってみせる。愛してる。戻ってきてくれ。

エイミーは隠遁している男性宅で、このインタビューをテレビでみる。そうして、ニックを見直すのだ。でも・・ニックはあくまでも、自分の身を守るための「戦術」として、この語りをしたわけです。要するに「ふり」をしたわけね。もちろんエイミーに「戻ってきて欲しい」などとは毛ほども思っていない。うそ八百。

つまり、メディアとはそういう存在なんだな。ひと言こうしたメッセージを流してしまうと、世間という実体のない空間では「真実」となってしまう。それはエイミーにおいても同じだった。つまりこのニックの「演技」を真に受けちゃったのね。そうして一転、自分を匿っている男性を惨殺して、ニックのもとに戻る。血まみれの格好で!

エイミーには微塵もぶれはない。ニックのあのメディアでの「美しい言葉」に基づいて、ふたりで結婚生活をやり直す決意である。自分が人殺しであろうが、ニックが自分を愛してなかろうが、そんなこと関係ないのだ。彼女の頭には「Amaizing Amy」として、人生の勝利者になること以外、何もない。以下にふたつのシーンを載っけておきます。夫婦の「リアル」と「演技」。もちろん「世間」には「演技」の方が浸透する。まず「リアル」からご覧下さい。



ちょっと解説を加えます。エイミーが血まみれの姿で衝撃の帰宅をしてから、七週後のこと。彼女はひとつの告白をする。精子バンクに預けていたニックの精子を使い妊娠したのだ。ニックは激怒するが、エイミーは眉ひとつ動かさない。
「君を愛したけど、憎み合い、支配し合おうとし、互いを苦しめた・・」
「それが結婚よ」
すっと振り向いて、こう言い切るロザムンド・パイクの眼差しが凄い。なんというかな、やっぱり「戦士」なんだな。確かに歪んでいるし恣意的だけども、ある「高み」にいるのは間違いない。この「結婚における諦観」は、真理には違いないんだから。呆然と座り込むニックに、勝ち目はないのだ。

次にメディア向けの「演技」をする二人。メディアが、あるいは世間が要求する「困難を乗り越えて再び絆で結びつけられた夫婦」というイメージを、ニックとエイミーが演じる。エイミーの策略であることを知るニックは、わずかながら抵抗を試みる。


心が通じ合っている。お互いに誠実です。そうだろ?
共犯者のようにね。
一瞬の沈黙のあと、見つめ合う二人。というか、じっさいは蛇(エイミー)が蛙(ニック)を睨んでいるようなものである。エイミーは目で「さあ、言いなさい」とうながす。そしてニックは言う。「僕たちは親になります」。メディアのインタビュアーは破顔一笑。抱き合うエイミーとインタビュアーを横目に、ニックの「やっちまった感」が半端ない。メディアでそう宣言したら最後、エイミーの描く結婚生活を継続する他はない。もし浮気とかで離婚でもしようものなら、ニックへの社会的制裁は、とんでもないことになるだろう。こわいこわーい。

最後に。個人的に思うのは、結婚生活とは「役割を演じる」ことが、どうしたって必要。円満な夫婦って、妻が「夫の教育者」としてふるまう、そして夫もそれをある程度は受け容れる、そんな構図ってないだろうか? 妻の「こらしめ」と「しつけ」を、「ごめんごめん」と苦笑いで返す夫、みたいな。漫才の「ボケとツッコミ」じゃないけど、そうした役割を演じられる夫婦は、長続きするような気がします。エイミーのように、リアルと演技があまりにも乖離しちゃうと、ニック的な男性にとっては、まさに悲劇というしかない。自分の妻がお蝶夫人♪でよかったと、胸をなで下ろしたのでした。以上「ゴーン・ガール」で語ってみました。

7月23日追記:お蝶夫人♪も本作に興味を持ち、DVD鑑賞後、話し合っていたのですが、エイミーは「あえてカテゴライズするならば」、演技性パーソナリティ障害との結論となりました。自分の強固な意志のためには、真実を曲げて「演技をやりきってしまう」才能があると思います。「演技」とは、結婚生活を維持していくための、ひとつの「技術」であることを考えると、エイミーという人物は、ニックよりも遙かに優れた「結婚技能者」ということになるのでしょうか。こわいこわーい( ;´Д`)