ゴーン・ガール/デヴィッド・フィンチャー監督(1)

「ゴーン・ガール」(デヴィッド・フィンチャー監督)を観た。正月に映画館で観て、今月になってDVDでふたたび観た。なんて言うんだろう、本作を観ると、心に奇妙なしこりが残るようだ。二時間半の長さだけど、まったくそれを感じさせない濃密な内容。根底には「夫婦生活という矛盾に満ちたもの」へのシニカルな態度がある。いや、「シニカル」と一言で済ますのは、ちょっと足りないな。冷笑、皮肉・・あるいは「暴言」と言ってもいいかもしれない。原作者のギリアン・フリンは、もしかしたら相当の「精神病質」なんじゃないかしら、と憶測してしまう。彼女の「夫婦生活は一皮むけば狂気の沙汰」という冷徹な洞察を、デヴィッド・フィンチャーが見事に料理している。そら恐ろしい映画だけど、対岸の火事ではないですよ、という話ですな。次のふたつの軸で語ります。

#1 夫が狂っているのか、妻が狂っているのか?
#2 「役割を演じる」ということについて

今回は、まず#1から。最初にお断りしますが、本作の前半までは「ミステリー」の体裁で描かれており、どうしても「ネタバレ」になっちゃいます。本作をちゃんと楽しみたいという方は、次の予告編のみご覧になり、DVDなりBDなりでお楽しみ下さい。私の流儀でBlogを書くと、どうしても「ネタをガンガンにばらす」のは致し方ないのです。ご了承ください。



幸福だと思われていた、とある夫婦。しかし、妻が突然失踪する。警察と過激化する報道からの圧力によって、夫の温厚な人柄のイメージが崩れ始める。夫の浮気と不確かな行動に世間はある共通の疑問を抱き始める。「夫が妻を殺したのではないのか?」(あらすじ by Wiki)

いきなり種明かししちゃうと、夫(ニック:ベン・アフレック)は唐変木野郎で、妻(エイミー:ロザムンド・パイク)は歪んだ完璧主義者なんだな。上記の「結婚五年目の事件」も、すべて妻エイミーが、それこそ病的なまでに完璧に仕組んだ罠だったのだ。個人的には、ベン・アフレックの「唐変木ぶり」が、とても共感してしまう。ニックという鈍感で、怠惰で、女にもだらしない男を、見事に演じている。五年間に積もりに積もった、この「うすのろ夫」へのお仕置きなんだね、要するに。エイミーにとっては「お仕置き」に過ぎないんだけど、それがあまりに完璧すぎて、そして残忍すぎるところが、ビョーキたる所以である。こわいこわーい。

ニックは「唐変木」のひとことで片付けることが可能だ。要するに、男でよくいるタイプね。しかし、エイミーの複雑なパーソナリティについては、ちょっとした洞察が必要だと思う。まず生い立ちが特殊である。両親に常に完璧を求められ、育てられた。「Amazing Amy(完璧なエイミー)」という偶像を打ち出し、商品化していく両親。そのプロセスで、完璧であろうとあがく自分と、どうせ完璧なんて無理という自分の二つが葛藤することになる。簡単に言えば、彼女は「戦士」なのである。「完璧なエイミー」として、人生を勝ち取っていく使命があると信じている。というか、その信念に取り憑かれている。個人的には、彼女は犠牲者だと思う。もちろん、彼女に巻き込まれる男たちも犠牲者だけど。負の連鎖っていうのかね。

心理学的にいうと「Amazing Amy」は、エイミーの両親が彼女に植え付けた「超自我」である。「完璧でなければ」という強迫観念につきまとわれる人生。前を向いて生きていくために、血を厭わない女。本作のラストは、このビョーキ女の勝利となる。完璧主義の勝利ね。「歪んだ完璧主義」と前述したけど、逆に「歪んでいない完璧主義」ってあるのかい? 人間は不完全な生き物ゆえ、結局のところ完璧にはなれない。完璧を許されるのは神、あるいは偶像だけだ。リアルに完璧主義を旗印に掲げる人がいるとしたならば、そこには何か恣意的な臭いを感じられないだろうか? エイミーの超自我(=行動規範)は、まさに恣意的であり歪んでいる。ビョーキなのだ。唐変木で牧歌的で、ロマンチックな男性陣は、本作のラストに懲らしめられる。でもそれが、ギリアン・フリンの主張なんだろう。それは彼女がまさに「女性」であることに、関係していると思う。私は本作を、女からの「punishment(こらしめ)」および「discipline(しつけ)」なんだと捉えている。次回、視点を変えて書いてみます。