自分の「業」について考えてみた(1)

言葉からインスパイアのコーナー! 今回はちょっと趣向を変えて「アスペルガーのパートナーのいる女性が知っておくべき22の心得/ルディ・シモン著」という本をネタに、語ってみたい。これ、うちの嫁からの推薦です。「アスペルガー症候群(AS)」という術語は、この際「自閉症スペクトラム(ASD)」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。実は私自身がASDに入っているという自覚がある。うちの嫁が本書を読んで、11年にわたる結婚生活で感じてきた「しんどさ」「違和感」「満たされなさ」などを説明できると感じたそうです。私も読んでみて「ああ、これはあるな~」と膝ポンした箇所がいくつもありました。ちょっと引用してみますね。

ASの男性はどんなにあなたを愛していても、あなたから離れることがたびたびあります。物理的に一人でいる必要性にかられているからかもしれません。あるいは、感情的に距離を置きたいからかもしれません。いずれにせよ、彼にはそういうときがあるのだと心得ておいてください。自分のせいだと思ってはいけません。人付き合いからの回避、決まりごとへの固執、感覚のオーバーヒートなど、ASのあらゆる症状が、多かれ少なかれ彼を引きこもらせるのです。



「人付き合いからの回避、決まりごとへの固執、感覚のオーバーヒート」☞ このみっつ、俺のハートを貫くぜ。著者は、ASDの本質を深く掴んでおられる。まさにこれなんですよ。これっていわゆる「業」だよね。例えば私は病棟業務よりも外来業務が好きなんだけど、病棟って、要するに情報が多すぎるのね。人も多い。だから混乱するし、疲労も積み重なる。ASDは思考が単線である方が落ち着くし、疲労も少ないのです。病棟ははっきり言って複線の仕事が要求される。想定外の動きや思考が、けっこう多い。私はアドリブが大の苦手です。決まった台本に則って、忠実にそれを行う。外来は、大抵が一対一の関係です。ある程度の「型」にはまった仕事なので、らくちんなのです。したがって、救急医療なんてのは、苦手に決まっている。あれはまさに、臨機応変が求められる分野だから。俺にはまったく向かない。

例えば「雑談」というものが、私はとても苦手です。ちょっとした挨拶とか、世間話とか、ホントに嫌。パーティーとか宴会とか、会議とか。ホントに嫌。なんで用もないのに、話せなあかんの? いつもパーティー会場では、間が持たんから、家畜のように食べる。ああ「気まずい沈黙」って、どうにかならんかよ! あと、一番こまるのが、ちょっとした知人とばったり出会うこと。それほど親しくもないので、話すべきか、無視するべきか、すごく困る。そういう時は、たいてい逃げる。逃げて自分の殻に閉じこもる。あれはまさに、恐怖である。俺にとって「社交」とは、まさに地獄を意味する。

だから、会議で発言するときなんかは「作り込んで」やるしかない。それこそ決死の覚悟で。まるで特攻隊みたいやな。発言が終わったら、その疲労感たるや、常人にはわからんだろう。あんたらは楽そうにしゃべっとるが、俺は必死なんじゃ。でも必要なことはしゃべらないといかん。少しでも自分が役に立つのならば、発言しないとそれは罪だ。罪というのは、他人に対してじゃなくて自分に対してね。自分が弱気でハードルを避けることは、自分に負けることを意味する。ASDの人って、みなそうだと思う。健常人がひょいと飛び越えるハードルを、決死の覚悟で越えなければならない。目に見えないハンディキャップ。

「感覚のオーバーヒート」☞ これ、著者の洞察力に脱帽である。指摘されると、たしかにある。つまり、ある感情の波がずっと残るのね。違和感というか、そうした感覚が、いつまでも残る。そうする間に、表層の意識には次々と新しい刺激、情報が飛び込んでくる。次第に感覚が混線し、頭部に熱を帯びてくるように感じる。これって、思考の粘着性というんだろうか。「忘却」がうまく機能しないというかな。うまく感情を流せないのね。

研修医のころ、病棟勤務をしていた時は、この「宿命的な混乱」はすさまじかった。なんで同期のみんなは、やすやすと仕事ができるだろう?と不思議だった。一仕事終えてから、次の仕事にうつる時に、円滑にいかない。切り替えられない。ただ、外来業務を15年くらい続けてきて、こんな自分でも、相当に鍛えられました。外来は一対一なので「前の感情を引きずらない」ことを訓練するには、理想的な場所だったと思う。今では、ちょっと違和感を感じても「ま、いっか」で忘れることができる。「仕事は人生における先生」とは、よく言ったものです。

このシリーズ、面白いので、あと二回ほど続けてみます。