出口のない海/佐々部清監督

「出口のない海」(佐々部清監督)を観た。実はDVD自体は2011年に取り寄せてあった。でも・・2011年に佐々部映画にとことん入っていって、もう満腹だった。正直、しばらく離れたい、そんな気持ちだった。あれから三年たち、竹内まりやの「返信」を聴いていたら、ふと書棚に眠っているこのDVDのことを思い出した。熱心な佐々部監督のファンの方が「ぜひ『出口のない海』を観て文章書いて下さい」と、コメントされていたのを思い出すなど。ああ、DVD観よう、これは観なくちゃいけない。ときに「絆」とか「仲間意識」とか、うざくなる自分がいる。私の本質はデタッチなんです。でも、関わるときはとことん関わります。まず、予告編を載っけておきます。大体の雰囲気など、つかんでください。



本作は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷「回天」をめぐる人間模様を描いている。「天を回らし戦局を逆転させる」という命名の通り、戦局は悪化の一途であり、それを「必中必殺の肉弾攻撃」で立て直そうという狙いである。いわゆる「特攻」のはじまり。

いちばん感じたのは、回天に乗り込む若い戦士の純粋さと、それを取り巻く国情という狂気。私は国家のことを、よく「巨人」に喩えて考える。そうすると国民は「巨人に属するひとつの細胞」にすぎない。「回天」が登場するような戦局では、国家という巨人が「敗戦」という汚辱を逃れようと、もがいているわけだ。そこに、若い純真な魂が利用され、つぎつぎと消費される。「特攻」とは何ぞや? 要するに、国家の断末魔に個人が巻き込まれることだ。これって、おそらく理不尽なことなのに、作中、それを疑う人はほぼいない。思っていても、声高には言えない。それこそが、国家(=巨人)たる所以なのだと思う。巨人って、歩く方向が定まってしまうと、なかなか方向を変えられない。動作はのろく、重く、融通がきかない。しかし彼の踏み出す一歩は、常に宿命的で歴史的である。細胞がひとつくらい反抗したところで、びくともしない。14日に衆院選挙を控えて、こうした「国家という巨人の重さ、響かなさ」を感じる人は、少なくないだろう。われわれ国民は、各々ひとつの細胞にすぎない。ああ、なんと無力なんだろう。

「愛国心」について少し。右とか左とかあるけど、私はそうした「所属」については、かなり疎い方である。個人と全体という軸で考えた場合、私は圧倒的に「個人より」の人間です。だから「お国のために死ぬ」という行為は、よく理解できない。大体において「国」なんて背負いたくない。もちろん、妥当な税金は納めるとしても。「国のために死ぬ」なんて思想は、こんなもん間違いですよ。本末転倒なのね。終戦間際の日本国民は、狂っていたと思う。いや、狂わされていた。それを堂々と「間違い」だと言えないんだからね。「国のために死ぬ」なんてのは愛国心とは呼べない。愛というより「溺愛」である。溺愛したら、国も腐るよ。愛はほどよく距離が保てて、初めて「愛」と言えるんだな。国が病んでいるときは、ちゃんと距離を置くべきだと思う。病んだ国を前にして、個人が混乱してはいけない。そういうのが「健全な愛国心」だと思う。

主人公の並木(市川海老蔵)が出征前夜に、父親(三浦友和)と言葉を交わすシーンがある。とても大事なシーンだと思うので、載っけておきます。



ここに描かれる父親は、上記の「さまざまの理不尽」をちゃんと解っている。でも、口に出すことはできない。息子は胸を張って潔く「国のために行ってきます」てなもんだ。自分が「戦争という狂気」に巻き込まれていることに気づかない。父の無念。父もまた、巨人の細胞のひとつだったのだ。システムが病んでいるのだから、どうしようもない。小さな歯車に何ができる? 父親いわく「おまえは敵の姿を見たことはあるのか?」と。これ、いい質問だよね。全体主義に巻き込まれた人たちは、こうした「リアルな視点」は薄弱だったと思う。そう、幻想の中で勝手に膨張する敵意、憎悪なんだな。これは現代のいわゆる「ネット右翼」にも通じると思う。思うんだけど、ネット右翼の人たちって、中韓をリアルに見たことあんの?って。幻想の中で、ナショナリズムは燃えたぎり、加速する。そうして、理性的な人たちは、巨人の一部として、静かにしているしかない。「そうか、行くのか・・ お国のために」としか言えない。なんとやるせない。

並木がいつも手にしていたボールについて、考えてみた。これって「個人の夢、希望」の象徴だと思うのね。当時の若者は、自分の純粋な夢を持ちつつも、無垢な気持ちで、その命をお国のために捧げた。ちゃんと特攻で相手の戦艦を沈没させた人はまだいい。軍神として崇められ、それこそ本望だろう。だが、並木は訓練中の凡庸な事故で、回天とともに海のもくずとなってしまう。まさに「出口のない海」である。どこにも行けない。青春を犠牲にして、命も犠牲にして、何者にもなれない。

ラスト。時は現代にうつる。場所は山口県大津島の回天記念館。かつての戦友、伊藤がここを訪れる。いまは亡き並木と伊藤は、よくキャッチボールをしたものだ。二人とも野球が大好きだった。好きでたまらなかった。おもむろに、伊藤が遺品である並木のボールを、天空に投げる。これはまさに「夢の解放」である。果たされなかった無垢な夢を、自由な天空に解放する。ささやかな「鎮魂」の儀式。あるいは戦争という理不尽に対する、ささやかな「反抗」だったかもしれない。以上「出口のない海」で、文章書いてみました。