Steve Jobs伝記(下巻)を読んで(2)

前回に引き続き「Steve Jobs伝記(下巻)」について、書いてみたい。今回は「#2 メメント・モリ(死を忘れるなかれ)」と題して、まとめてみます。

2003年10月、スティーブは腎臓結石の関連で、たまたま腹部のCTを撮る。腎臓に問題はなかったが、膵臓に腫瘍がみつかる。精査を勧められたが、スティーブはこれを無視する。いつものように、気に入らない情報は知らないふりをするのだ。しかし医師は放っておかない。そりゃ、当たり前だ。医師の真剣さに負けて、しぶしぶ内視鏡的な検査など実施。医師らは、生検の結果をみて涙ぐんだらしい。膵臓のがんとしては珍しいタイプで、進行がおそく、完治できる可能性が高かったのだ。そもそも発見する契機が「偶然そのもの」だったんだから、ラッキーというより他ない。転移する前に手術で切除すれば、一安心というわけ。

ところがである。スティーブは手術を拒否する。これには友人や妻もぎょっとした。彼の本音としては「体を開けていじられるのが嫌で、ほかに方法がないか少しやってみたんだ」と。具体的には、まず新鮮なにんじんとフルーツのジュースを大量にとる絶対菜食主義。これに鍼治療やハーブを併用する。ネットで見つけた方法や、心霊治療の専門家など、他人から勧められた方法もためした。その他、有機ハーブ、ジュース断食、腸の浄化、水治療、負の感情の表出など。妻や友人の懸命の説得も、なかなか届かない。フラストレーションが高まっていく。

結局、スティーブの抵抗は診断から九ヶ月も続いた。すさまじい集中力の裏には、対応したくないと思うものをフィルターで取り除いてしまう強烈な意志がある。この件では、その性質が完全に裏目に出た。彼は「向き合わないとなったら、とことん向き合わない」人なのだ。2004年7月のCTでは、大きくなった腫瘍が写っていた。さすがのスティーブも、現実と向き合うしかなくなった。手術は7月31日に実施。残念ながら、がんは拡がっていた。術中、肝臓に三カ所の転移がみつかった。九ヶ月早く手術していたら・・ 人生に「たられば」なしというが、これは痛恨の極みというやつだ。ここから、スティーブは化学療法を開始し、がんとの長い闘いを始めることとなる。

2001年頃からスティーブは「デジタルハブ」という構想を打ち出し、まさに全身全霊を傾けていた。彼にとって、膵臓の腫瘍どころじゃなかったのね。デジタルハブ ☞ PCを基幹として、音楽やビデオ、写真、書籍などの分野と連携していく。これはAppleを変革するだけでなく、テクノロジー業界全体を変革する壮大な歴史的事業だ。スティーブは常に「人間性と技術の交差点」を意識していた。創造的なアートの世界と、優れたエンジニアリングを結びつけること。この交差点こそ彼が立つべき場所であり、まさに究極の理想だった。ピクサーのCEOも兼任していたので、その仕事量はまさに想像を絶するものだっただろう。2004年から、化学療法をしながらの、まさに満身創痍の状態で、じぶんの理想を追求した。

興味深い映像があるので紹介する。スティーブの真骨頂とも言える、新製品のプレゼンテーションのベスト3。三位が1998年のiMac(0:00)。この時はもちろん元気で、むしろメタボなくらい。二位は2008年のMacBook Air(3:40)。そうとうに痩せこけているが、表情は生き生き。一位は2007年のiPhone(5:40)。入念なプレゼン、かつ歴史的な一撃。ちなみに人生最後のプレゼンは、2011年3月のiPad2である。このときは薄気味が悪いほどにやせこけていたが、生き生きとした笑顔で、客席は大騒ぎとなる。もともと病気療養中ということで、登壇しないはずだったから。下にごく簡単な年表を添えておきます。



1998年 iMac
2001年 iPod
2003年10月 膵臓癌みつかる
2007年 iPhone
2008年 MacBook Air
2009年3月 肝臓移植
2010年 iPad
2011年10月5日 永眠(56歳)

最後に、例のスタンフォード大学のスピーチ(2005年)から引用して、締めくくります。このときのスティーブはまだまだ元気だけど、確かに「死と隣り合わせ」だったんだね。だからこそ下記の言葉は、魂が宿っていると思うのです。

人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。ほとんどのことがーー周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖などーーそういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。