今回は「『支持的に傾聴』って、なんぼ?」と題して、ひとつ語ってみたい。まるちょうは「とことん患者さんの言葉を聴く」医者である。これ、自慢のように聞こえます? いや、そうじゃなく、これは「自嘲」なんですね。最近はそれほどひどくなくなったけど、そうね、例えば10年くらい前は「際限なく患者さんのしゃべくりを聴いてしまう」医者でした。つまり、患者さんの訴え(あるいは雑談)を、コントロールできない医者でした。これは患者さんにとっては、とても嬉しいことに違いないのですが、外来や健診全体の流れを考えたときに、他の患者さんの待ち時間が長くなるという弊害が生じます。医師の「聴き上手」という言葉は、患者さんの話を適切にくみ取って、意味のない話になれば、うまく切ることができる、という意味合いを含んでいます。「我が我が」という姿勢は、病院という公共機関には馴染みません。
患者さんの中には、薬とか診察とか、そんなものよりも「まるちょう先生としゃべりたい」という一心で受診される方もいらっしゃる。これ、ホントですよ。近況とか、自分の病気と全然関係ないことをひとしきりしゃべくった後、「ほなついでに薬くださいね」みたいな(笑)。独居の高齢の方に多いかな。そういう時は「うん、うん」と相づちうって、ひたすら聴く。こうした時、カルテには「支持的に傾聴した」と記します。そうそう、精神科と併診の患者さんも、けっこう聴くかな。背景に不安とかストレスとかを抱えている人は、どうしても「医師に話を聴いてほしい」のです。そして「話を聴く」という行為だけで、相当に症状が緩和するのも事実です。
この「支持的に傾聴」という医療行為、とても有用な技なのですが、ひとつ重大な欠陥がある。それは「対価がゼロ」ということです。難しく言うと「診療報酬が取れない」ということになります。患者さんの話をじっくり聴くと、ずばり「時間が刻々と消費される」のです。外来の診療時間は、もちろん有限です。各々の患者さんに、時間はできるだけ公平に与えられるべきです。でも「支持的に傾聴」という行為をすると、必然的に「時間配分の不公平」が出てくる。「支持的に傾聴」したはいいが、その後の患者さんは、えらい待ち時間長くなった・・それで怒る人もいるだろうし、それをなだめる看護師のストレスも相当だろう。待合には怒りと緊張と疲労がみなぎり、「病院にきて、病気が悪なったわ」という捨て台詞が吐き捨てられる。要するに「公平さを犠牲にして成り立つ医療行為」なんですわ。
「医は仁術なり」という名文句があります。でも最近、診療所の会議に出席するようになり、ホントに「医は仁術」なのか? と思ったわけです。われわれ医師が診療する裏で、事務の方々が、黙々と粛々と「細かな数字と格闘している」という事実。本当に細かいです。こんなのよくやれるな、と感心するほど細かい、神経のすり減る作業です。つまり、事務方がそうした「仁術の裏に隠れた算術」を尽くしているからこそ、病院というシステムは成り立っている。いわば「仁術は理想」であり「算術は現実」なわけね。医業はつねに、その理想と現実の狭間を唸りながら、悩み苦しみ、彷徨う。これって、医業が本質的に背負う「カルマ」みたいなもんじゃないかな。どちらか一方に偏った瞬間、医療は崩壊へと突き進む。
だから思うんです。「支持的に傾聴」という行為には、ちゃんと対価をつけるべきだと。患者さんの話を延々と聴いて「俺は患者さん想いのよい医者だなぁ」と、勝手な自己陶酔にひたるのは、医業の初歩の初歩で誤っている。「支持的に傾聴」したら、ちゃんと金を払ってもらうべきだ。だってその患者さんが、本来公平であるべき時間を、独占的に消費したのだから。ただし・・当たり前の話ですが、この「支持的に傾聴」に「どうやって」対価をつけるかが、極めて難しい。というか、現実的に、ほぼ不可能なわけです。まさにここに、医業の難しさがあると思う。仁術と算術の狭間における懊悩、無力感。
「患者さんの話を聴く」という、基本的な医療スキル。この何気ないスキルの中に、そうした深淵が含まれています。昔は「俺は患者の味方だ」みたいな、安易なヒロイズムに酔っていたのですが、私も成長したもので、悪意さえ感じる場合には、患者さんを診察室から叩き出します。
「あなたの持ち時間は10分ですよ! さあ、15分経過した! 後の患者さん、こんなに待ってるんよ! 迷惑でしょ! ・・お、17分経過! はいはい分かりました。またね・・ああ、20分経過! 待ってはんのよ! このカルテが見えるでしょ!」
認知症で自分の昔話を聞いてほしいだけの患者さんです。二ヶ月に一度受診されますが、そのたびにこうした「排除」をしなければならない。最初は殺気立ちましたが、最近は「いかに楽しく排除するか、険悪でなく、笑顔で排除するか」というテーマで、この困難な患者さんに対応しています。そう、診療とは「答えなき戦い」なのです。以上、とりとめがなくなりましたが「支持的に傾聴って、なんぼ?」というお題で語りました。
科の性質上、そういうことは起こるでしょうね。
私など、気が短いもので「患者にしゃべらせない」風潮があり、気をつけているほどです。
自由にしゃべらせるととめどがないので、特に初診の時にはこちらから聞くスタイルですね。
それで嫌だという人もいるし、さっさと回るからよいという人もいると思います。
医は算術、これは開業医にとっては死活問題ですから、
20分しゃべって1000円にしかならない人を診るより、5人見て500円ずつ払って帰ってもらったほうがいいに決まっています。
ただそれだけでは行かないのが医療ですから、たまには10分しゃべる人もいるわけです。
私の知り合いにも処置は遅い、話は全部聞く、という医者はいますが、とてもはやっています。
ただ私は気が短いので、そんな悠長なことはやっていられない、ただ性格の問題なのでしょう。
患者さんの中には「ここはさっさと早いから来る」という人もいれば「ゆっくり話を聞いてくれないからもう来ない」という人もいるでしょう。
両方は取れないんですよね。
得てして患者は「待つのは嫌だが話はゆっくり聞いてほしい」と言うのですからね。
> カバ先生
先生の所は、算術も全部こみで考えないといけないから、大変だよね。
僕は「医術のみ」に専念すればいいので、ありがたいことです。
でも、会議に参加するようになって、算術にももう少し関心を
持たなければ、と反省するようになりました。
医療って、つかみ所がないというか、どうなんでしょうね。
なるようにしかならない、と言えば、やり投げなんでしょうか。>陸上か!
両方は取れない。その通り。どこかで割り切りが必要なんでしょう。
医療って、軟体動物じゃないと務まらないよね。違うか(笑)
お返事遅くなりました。
私は神様じゃないから、できることしかできない。(みんなそう)
だから自分に合った診療スタイルでよいと思っています。
特に田舎に住んでいて全員の命を預かるというような大それたこともしていないのですから
合わなけりゃ、他を選ぶ方がいていいと思うんです。
8割の人に合えば御の字でしょう。
逆に2割の人しか合わなければ、つぶれますからね(^^;;
ただ、自分を「どこに置くか」ということは一つの大きな問題としてあると思います。
利益優先の病院で働くのか、そんなことは言われない自由な環境で診療できるのか、
自分がどの立場で働くのかを、自分で見極めて自分が一番働きやすいところでは働けるように努力する、
私は努力することは好きではないですが、自分のためであればある程度考えます。
で、結果が今のスタイルなんですよね~。
> カバ先生
そうそう、結局のところ「自分に合った診療スタイル」で
よいんだと思います。無理したら、続かないしね。
合わなければ、よそに。それでよし。
ほんま、神様じゃないんだから。
自分の立ち位置というのは、ちゃんと把握すべきですね。
自分は何を一番大切にしているか。
カネか、やりがいか、力か、名誉か、?
僕はずばり「健康」かな。
精神疾患を抱えているので、倒れたら終いです。
「一年間休職」なんて、普通にあることなんです。
昨年、そういう意味で地獄を味わい、転職も考えたくらいです。
要するに、カネよりも身体なんですよ。健康、身体、精神状態。
転職して収入がダウンしても、健康が保持されるならいいと
真剣にその時は考えました。
幸いにも、診療所側がちゃんと診療体制を改善されたので、
ありがたく、現在も仕事させてもらっていますが。
大事なことなので、もう一度記します。
僕は「健康状態が保てる場所」で働くことが最優先です。
家のローンも残ってるしね。倒れることは許されないんです。