孤独って贅沢なんだろうか?

村上さんのQ&Aのコーナー! 今回も「そうだ、村上さんに聞いてみよう」から質疑応答を抜粋して、まるちょうなりの考察をしてみたいと思います。

<質問>私は五ヶ月の子供がいる25歳の専業主婦です。私は多分人より寂しがりなのか、主人が仕事で忙しくて毎日帰りが遅かったりすると、寂しくてたまりません。友達は多少はいるのですが、みんなそれほど暇でもありません。けれど、積極的に友達作りをしようとするほど器用でもなく、時々さみしいさみしいとばかり思ってしまいます。こんな私に解決策はありますか。

あと、村上さんは人との付き合いを面倒と思うほうだそうですが、どの位の間、人と会話をしなくてもさみしくありませんか。私は自分がすぐさみしくなってしまうのは、普通じゃないのかなと思ったりします。

<村上さんの回答>うーん。どれくらい一人で黙っていられるか? 実際に計ってみたことがないので、詳しいことはわかりませんが、ずうううううううううっとやっていられそうな気がします。一人で音楽を聴いて、本を読んでいると、えんえんと黙っています。結婚する前は、半月くらいほとんど人としゃべらないこともありました。でもとくに苦痛ではなかったですね。結婚してからはなかなかそういう贅沢なことはさせてもらえないので、ときどきつらいですぅ。


<まるちょうの考察>まるちょうも、基本、ひとりで黙々となにか作業するのは、ぜんぜん苦になりません。独り言は、けっこう言うけどね(笑)。例えば、一般外来の後の心電図読影など。腹部エコーの部屋をお借りして、ほぼ完全に独りで作業している。このひととき、本当にありがたいご配慮です。ただモーツァルトを聴きながら、人目を気にせず作業に没頭できる。なんて幸せなんだろう。一般外来が「人に関わっていくこと」であるとすれば、心電図読影は「人に対して無関心になること」なわけですね。コミットメント☞デタッチメントの気持ちよい移行。念のため、言葉の意味を記しておきます。

コミットメント(commitment=献身、責務、誓約)

デタッチメント(detachment=脱離、孤立、無関心)


人間社会は、コミットメントとデタッチメントが適当に混じり合ってやってくるから、バランスがとれる。これが「強い束縛でがんじがらめ」とか「どこまでも完全なる孤絶」とかなっちゃうと、たいていの人間は精神がおかしくなっちゃう。そう、村上さんは「自分の孤独好き」を、ちょっとドヤ顔で述べておられますが、そりゃ人間だもの、限界があるわさ。陽子夫人というパートナーがいらっしゃるのは、やはりご自分のお仕事にも相当な影響があると想像しますけどね。

家族って「最小限の束縛」なのかな。この世にまったく「しゃべる相手」がいないとなると、相当にヤバいと思う。孤独を「贅沢」と思えるのも、そうした「小さな束縛という隠し味」があるからだと思う。人間関係って、面倒くさかったり、うるさかったりもするけど、本当にありがたいものなんですよね。縁って、大切にしたいと思う。縁という「しがらみ」の中で、ときに甘い孤独を味わえればよいと思う。

ここまで書いてきて、ハッと気がついた。この質問と回答には、ひとつ大きな見落としがある。この25歳の質問者は「完全に孤独」ではない。五ヶ月の子供がいるのだ。つまりこの女性は、乳児との関係性の中で生きている。そして乳児は、あれこれと要求する。彼女は絶対的に「与える立場」であり、そりゃ疲れるだろう。だから「さみしい」というより「つらい」の方が表現として正確なんじゃないか。世話して、与えるだけ与えて、自分はすり減っていく。関係性の中での摩耗。育児というコミットメントの極地。

この女性は、要するにデタッチメントの極端な欠乏なんだな。でも、どうしたらこの女性にデタッチメントを与えられるだろう? 文字通り「脱離」してしまうのは、まさにネグレクトになっちゃうし。やはり、ママ友同士のおしゃべりとか? いやいや、乳児だからそうもいかない。ここに「育児」という仕事の、アンバランスさが表出していると思う。コミットとデタッチの暴力的なアンバランス。この狂気を孕んだアンバランスは、虐待という非人道的行為の素地となり得る。そして、この狂気と平凡な日常は、一本の線で結ばれている。最後に、三木清の印象的な言葉を記しておきます。

孤独であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。

我々が物において滅ぶのは孤独を知らない時である。


このお母さんに「完全なる孤独」を与えたい。孤独になることって、大切なんだなぁと思いました。以上、村上さんのQ&Aのコーナーでした。