ニュー・シネマ・パラダイス/ジュゼッペ・トルナトーレ監督(2)

さて、最後に「人生と時代、そして愛」と題して書いてみます。何度も言いますが、ラストシーンに詳細に触れていきますので、可能なら映画を観てからこの文章を読んで下さい。

そもそもストーリーは、アルフレードの死から話が始まる。アラフィフのサルヴァトーレは、その伝言を受けるまで、故郷のことをすっかり忘れていた。つまり、自分には「戻るべきところがない」という妙な戒律を持っていたと思う。そうだ、俺には故郷というものがあったんだ・・それが彼の正直な気持ちだっただろう。そして30年前の、アルフレードの厳しいが優しさにあふれた言葉を思い出す。そう、恩師の死を知って、おそるおそるノスタルジーに包まれるのだ。

本作のキモのひとつとして、パラダイス座の解体のシーンがある。あれだけ隆盛をきわめた「夢の場所」が取り壊される。それを遠巻きに見守る人々の相貌も、みな老いて煤けている。寂しさ、落胆、心に穴があく感じ・・ テレビやビデオの出現で、映画というメディアは過去のものとなったのだ。それはずばり「ひとつの時代の終焉」を象徴している。「万物は流転し、やがて死ぬ」☞これは真理である。厳しいようだけど、避けようのない真理だ。なぜなら「時間」はどうしたって進む。止まることは許されない。時代はうつろい、人生は老いていく。自然の摂理に対して、我々はなんと無力なんだろう! すべては「失われていく」・・例外なくすべて。

サルヴァトーレは、独りローマに出て、社会的には成功していた。しかし、特定の女性とは付き合わず、幸せとは言えない。「なにか」が彼の中で死に絶えたままなのだ。エレナへの想い、心の傷は、30年たった今でも癒えていない。彼はたぶん、人を真剣に愛することが怖かったのだろう。過去のトラウマからの、逃避やあきらめ。でも逆に、そうした割り切りがあったからこそ、がむしゃらに仕事して、今の地位を確保できたのかもしれない。人を愛するということは、ある意味「愚かしい」ことであり、仕事する上では「邪魔」でさえあり得る。

では、世界は「失われていくばかり」なんだろうか? 愛って「愚かしくて邪魔」なんだろうか? アルフレードの形見である、ミニ・フィルムがその問いに応えてくれる。そう、ラストシーンですね。パラダイス座が活況のときに、司教が検閲して削除を命じた断片フィルムの寄せ集め。要するに男女の接吻シーン集です。ここ、全く科白なしです。あるのは、上記のアルフレードのミニ・フィルムとサルヴァトーレの表情、そして、テーマ音楽のみ。でも・・このシンプルな構成が泣かせる。何度観ても、泣いてしまう。ホントに不思議な現象。



まるちょうはこう思うのです。サルヴァトーレは、これを観て「許された」のだと。故郷から逃れて、エレナの心の傷からも逃げて、「立派にならなければ」と気負ってずっと生きてきた。天国のアルフレードは、彼を解放してやったのです。つまり「もっと愚かに生きていいよ」「愛し合うのなんて、簡単なんだ」「そんなに考え込むな」「愚かに、一歩をしかと踏み出せ」と。ミニ・フィルムの映し出す世界は、あの「少年トトと映写技師アルフレード」の原風景に似ています。トト、あの世界へ帰ってきていいんだよ。愚かで、無邪気で、愛に満ちて、無力で、妙に可笑しくて・・ そんな世界に。このフィルムを観ていると、まるで時間が止まるようだ。誰にも止められるはずのない「時間」という悪魔が、ここでは退散している。なんてすごい!

このミニ・フィルムは、サルヴァトーレの年代(アラフィフ)にとって、特に心に沁みるんじゃないかしら。要するに「愚かになることが許されない年代」ね。凝り固まって、痛みさえある現状を、優しく緩和してくれる。ずばり、脳内麻薬が出ていると思います。それだけの効能のある映像です。ラストシーンでのサルヴァトーレの表情が、とても印象的。長年のこだわり、呪縛を解かれて、サルヴァトーレは救われたんだな。愛という「愚かなもの」は永遠たりうる。そしてもちろん、映画も永遠たりうる。天国のアルフレードが毅然として伝えた瞬間だったと思います。それにしても見終わった後、なんて清々しい気持ちになる映画だろう。以上、三回にわたり「ニュー・シネマ・パラダイス」について語りました。