ニュー・シネマ・パラダイス/ジュゼッペ・トルナトーレ監督(1)

33まず#1「人生ってやつは・・」と題して語ってみます。本作は大きくみっつのパートに分けることができる。主人公サルヴァトーレ(トト)の成長に応じて・・つまり、少年トト、青年サルヴァトーレ、現在のアラフィフになったサルヴァトーレ。本作を素直に鑑賞したばあい、一番なごむのは少年トトと映写技師アルフレードの無邪気なふれあいじゃないかしら。少年トトを演じるサルヴァトーレ・カシオくんの、なんと愛らしいことよ!screen-shot-2014-04-05-at-2-48-32-pm 彼とアルフレードの微笑ましい、茶目っ気のある師弟関係は、見ていてホッとする。こんな無邪気で和やかな日々がいつまでも続いたら・・

それと連動して、映画が唯一の娯楽だった、あの黄金の日々!「パラダイス座」という名前も、まさに正鵠を射るネーミング。映画をめぐり、みなが沸き立ち、目を輝かせたあの頃。映画鑑賞をこんなに楽しく描いた作品も珍しいだろう。ホントにみなが映画というメディアに夢中だった。パラダイス、そう201109061611468b9「夢そのもの」だったのだ。

しかし「好事魔多し」というわけで、映画館に火災が起こる。そしてアルフレードは瀕死の重傷☞映写技師を引退。以前は「いい人キャラ」だった彼は、盲人となり、少し陰のある「哲人」のようになる。少年トトは凜々しい青年サルヴァトーレとなり、激しい恋の波に巻き込まれる。ここで主に描かれるのは、彼の孤独だと思う。恋人エレナにどれだけ愛情を注いでも、実らない。絶望と苦悩の日々・・

人って、なんで青年になり、大人になり、老人になっていくんだろう? いつまでも子供のようにじゃれあったり、ふざけたり、一緒に泣いたり・・そういう「無垢な時間」を、神様はいつも子供から奪ってしまう。気がついたら疾風怒濤の思春期だ。恋という「予期せぬ隕石」が降ってくる。そうして、いつしか「無邪気に笑うこと」さえ、ままならなくなる。青年が終わったら、やれ大人だ、成人式だ。時間が若者の背中をせっつく。人生という重しを背負うスキル・・建前とか妥協を学べと。立派になりなさいと言われつつ、少年期のパラダイスは、いつしか人生という牢獄へ変貌するのだ。くそったれ。

ZWVPjdVu

そういう一般論はおいといて・・ 青年サルヴァトーレの中で、なにかが死に絶えた。アルフレードは、それに気づいていた。「この村から出て行け。ローマに行って、もう戻ってくるな」とサルヴァトーレに諭す。それはサルヴァトーレを心から愛するがための、厳しい忠告だった。駅での見送りの場面で、アルフレードはサルヴァトーレの耳元で、声を殺してこう伝える。

帰ってくるな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。郷愁に惑わされるな。すべてを忘れろ。我慢できずに帰ってきても、私の家には迎えてやらない。分かったか。(中略) 自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように。

言葉自体は厳しいけど、サルヴァトーレには、アルフレードの愛情が手に取るように分かっている。結局、今や「邪悪の地」となり果てた故郷に、未練が少しでも残ったら、この青年の前途は暗い。アルフレードはそれが直観で分かっていた。だからこそ「心で泣きながら」サルヴァトーレをローマへ送り出したのだ。親愛なる「弟子であり友」を、心を鬼にして送り出した哲人、アルフレード。盲目でありながら、その心眼は人の心の奥底まで見通してしまう。

アルフレードの言うとおり、人生とは困難なものだ。なかなか映画のようには行かない。時には故郷との断絶や、愛する人との別離が必要になることもある。そう、人生は本質的に「戦い」なのです。なあなあで行けるような、甘いものではない。アルフレードは、その真理を熟知していた。要するに彼は、サルヴァトーレを「人生という戦場」へ送り出したのだ。サルヴァトーレには、その戦いに耐えて大成するだけの力があると見抜いていたわけね。・・人生ってやつは、長渕剛が言ったように「しあわせのとんぼ」なのかね。ふらふらしていると、どこかへ飛び去ってしまう。からかうように舌を出して。だから、どうしても「つかみ取る」という姿勢が必要なんだな。逃げたり、拗ねたり、怠けたりしていたんでは、人生という戦場では成功できない。ほんま、人生ってやつはよ・・(>_<)