スプートニクの恋人/村上春樹作(1)

「スプートニクの恋人/村上春樹作」を読んだ。10年以上前に読んで、いちおう「面白い」と感じたのだが、今回はずっとずっと深い理解ができたように思う。次のふたつの軸で語ります。

#1 人間はみなひとり

#2 世界の「こちら側」と「あちら側」


今回は#1について。村上さんの文学における一番のテーマは「孤独」だろうと思う。本作は、すみれ、ぼく、ミュウの織りなす奇妙な三角関係をつうじて、切なくてやるせない「孤独」を描ききっている。その「三角関係」について、以下を引用しておく。

この女性(ミュウ)はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはぼくを好きではあるけれど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。






この「迷宮としての愛」は、ノルウェイの森に似た構造かもしれない。結局どこにもいけない愛やね。あるのは、各々の孤独だけ。村上さんは、ラストに「ぼくとすみれの再会」らしき気配を漂わすのだが・・ 個人的には、これは読者に対するエクスキューズに近いと想像する。つまり、ストーリーがあまりにハードボイルドになりすぎて申し訳ない、と村上さんは感じたんじゃないかな。村上さんは常に「読者への気配り」を忘れない人だ。私はこのラストに、そうした「逡巡」を感じてしまうんだけど。じゃあ、まるちょうが代わりに、逡巡することなく明言しよう。だって、永遠の真理なんだから仕方ないじゃん。

人間はみなひとりである。


このきっつい命題は、みな知っているようで知らないふりをしている。例えば親子だって、結局はべつの人格である。というか「べつの人格」と認知できるからこそ、いたわれるのである。逆の立場から、いろんな「悪」が発生しうる。たとえば・・虐待、差別、暴力、群集心理、お国のために、ハラスメント、ブラック企業(搾取) 等々。

「人間はみなひとり」という立場から、思慮が生まれ、礼節や品格がさらに生まれる。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉は、まさに「相手を別の人格=ひとり」と認知しているからこそ。

「絆」という言葉がある。美談好きのメディアがよく使うんだけど、絆って、そんなに簡単にできるもんじゃない。「人間はみなひとり」という立場からすると、それは途方もない困難を伴うのです。メディアが声高に連呼する「絆」は、あえて幻想と言いたい。リアルな絆って、もっと目に見えない、小さな声で語られるものです。リアルな絆って、地道に時間をかけて相当な苦難を乗り越えて「ぼんやりと生まれる」ものです。いきなり「絆」と書いた大旗がTV画面にどーんとか、ホントやめてほしい。人間は、究極的には繋がれないのです。それをちゃんとわきまえてほしい。繋がれないからこそ、求めずにはいられない。このパラドックスって、伝えにくいと思うねん。だからこそ、メディアは安易に「絆」という言葉を使わないでほしい。

わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じこめられたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独の中にいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね。

このミュウの言葉は、ずばり本作の核心です。ふと思いついたんだけど、Twitterって、これと似たような構造じゃないかって(人にも依るけどw)。ツイッタラーって人工衛星スプートニクに乗ったライカ犬じゃないかって。たまに挨拶し、すこし言葉を交わすけど、本質的には交わらない。眺めているだけ。燃え尽きてゼロ☞アカウント削除になるまで(笑)。1999年に発表された本作は、そうした未来の「究極的に繋がらない人間のツール」を予見していたのかもしれない。底流に「現代人の心を侵蝕する孤独」があるのは、間違いない。次回は「#2 世界のこちら側とあちら側」というお題で語ります。