スプートニクの恋人/村上春樹作(2)

ひきつづき「スプートニクの恋人」より。今回は「世界のこちら側とあちら側」というお題で文章を書いてみたい。思うに、本作は後半から特に、とても心理学的な色合いが強くなる。前回の「出口のない三角関係☞孤独」の構図から、急展開という感じかな。でも、村上さんの本当に書きたかったのは、こちらじゃないかって思うのね。この「心理学的な要素」は想像するに、故 河合隼雄先生の影響がたぶんにあると思う。村上さんと河合先生はいくつか対談集を出しておられる。私が持っているのは次のふたつ☞「こころの声を聴く(現代の物語とは何か)」「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」 前者は1994年5月に米国のプリンストン大学にて、後者は1995年11月に京都にて行われた。後者の方が、より柔らかい内容になっています。アルコールも入っていたみたい。文学論みたいなことは、前者です。つまり、本作に深く関わるのは前者だと思う。本作が発表されたのが1999年だから、どう考えても河合先生の影響って大きいと思うんだけど。

本作の1/3程度のあたりで、すみれが失踪する。ギリシャという異国の地で、まさに「消えて」しまう。もちろんあらゆる捜索がなされるが、見つからない。その事件にからんで明かされるミュウの過去。14年前の恐ろしい出来事のため、当時25歳の彼女の髪の毛は、一本残さず真っ白になってしまう。ピアニストとしての道は絶たれ、誰とも肉体関係を持てない。彼女の中でなにかが永遠に消えてしまったのだ。


「恐ろしい出来事」☞ ドッペルゲンガーという現象が描かれます。つまり「自分のコピーを見てしまう」ということ。「自分のドッペルゲンガーを見ると、しばらくして死ぬ」などと伝承されることもある(by Wiki)。ミュウのドッペルゲンガーは、性欲を満たすのに貪欲であり、倫理のかけらもなく、彼女はその邪悪さに吐き気を催し、気を失う。気づいたら病院のベッドにいて、髪の毛は真っ白☞ふたたび卒倒する。そうしてミュウは失われる。彼女はすみれに次のように告白する。

「わたしはこちら側に残っている。でももう一人のわたしは、あるいは半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。私の黒い髪と、私の性欲と生理と排卵と、そしておそらくは生きるための意志のようなものを持ったままね。(中略)わたしたちは一枚の鏡によって隔てられているだけのことなの。でもそのガラス一枚の隔たりを、わたしはどうしても越えることができない。永遠に」



上記の「あちら側に移ったもの」とは、心理学的にはリビドーということになろう。ちなみに、リビドーは本来的に邪悪で、混沌として、倫理のかけらもない。彼女はそれを身の毛のよだつほどに嫌悪したのね。それを自分の一部と認めることができずに。上記の「分裂」は、したがって彼女自身が引き起こした現象だったと言える。曰く「(14年前の出来事は)ある意味では、わたし自身がつくり出したことなのかもしれないわね。ときどきそう思うの」と。

さて、すみれはいったいどこに消えたのか? 村上さんは読者に「ほのめかす」だけに控えている。ある日の夜に、ギリシャの音楽に導かれて「ぼく」が山の上で体験した、奇妙な乖離の感覚。時間性が失われ、意識が遠くなり、激しい悪寒と呼吸困難。「ぼく」は紙一重でその「触手」から逃れる。呆然とする中、すみれの失踪の真相について、直観的にこう確信する。「すみれは、世界のあちら側に行ったんだ」と。そしてミュウの言う「ガラス一枚の隔たり」について、想いをめぐらす。「あちら側の世界」には、すみれがいて、失われた側のミュウがいる。髪の黒い、潤沢な性欲を持ったあと半分のミュウが。彼女たちはそこで巡り会い、お互いを埋めあい、愛を交わすのだろうか。

最後に「世界のあちら側」について、私見を述べます。具体的な例としては「黄泉の国」というのがある。いわゆる「異界」ですな。それを信じるかどうかは、個人の自由。ただ、ミュウがドッペルゲンガー現象に巻き込まれる状況や、「ぼく」がギリシャ音楽に導かれてトランス状態?のようになる状況は、現実にもあり得るんだと思う。名付けて「トワイライトゾーン」。これ、例えば「となりのトトロ」でサツキとメイがバスを待っている場面だってそうですよ。自我が後退した場面で、こうした幻影は出てくる。トトロ、猫バス・・非論理的で時間性のないもののけたち。村上さんも「羊男」という非論理的な幻影を出していますね。宮崎駿監督と村上さんに共通するのは「意識のずっと深いところへ潜っていく」という試みだったと思うのね。

その一番簡単な例が「夢」です。だから、トワイライトゾーンというのは、決して特殊なものではない。個人的には「世界のあちら側」は、あっていいと思っています。だって世界がこちら側だけじゃ、つまんないじゃん?(笑) 以上「スプートニクの恋人」の感想を二回にわたり書きました。