友だちって何だろう?

「言葉からインスパイア」のコーナー! 言葉を起点にして、文章を書くコーナーを作ろうと思います。これならネタに困らない!(笑) 今回は「侏儒の言葉/芥川竜之介作」より、次の言葉をまず引用します。「好人物」という題目で。

女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのによい。第二に不平を訴えるのによい。第三に・・いてもいないでもよい。

まるちょうが今回語りたいのは「友だちって何だろう」ということです。私も20年前は「好人物」だった。いわゆる「友だち」も、結構いたように思う。もちろん、女性にはモテなかった。これは芥川さんの言うとおり。ここでは「好人物」を、冷笑的に表現している。ポイントは「自我の弱さ」じゃないかと思うんだね。人間としての「アク」というか「こだわり」というか・・ 「来るもの拒まず」的な懐の広いように見せかけて、実は「自分という主張」が弱いだけの人。最後の「いてもいないでもよい」というトドメの一撃は、実に芥川さんらしい切れ味。爽快ですらある。


まるちょうの思うに、子供時代の友だちと、大人になってからの友だちは、別なんじゃないかと。上記の「好人物」は、大人だからこそ揶揄されるのである。子供なら、まだそういう「人のよいタイプ」というのは、あっていいと思う。むしろ、可愛らしいくらいだ。子供時代は、いわゆる「カースト」がはっきりしていて、主従関係のなかで友情が成立することが多いと思う。「好人物」は、困っている人に大いに同情してやり、楽しいときは一緒に笑い・・おそらく人気者だろう。それはそれで、素敵なことだ。

一方、大人の「好人物」はどうか。一般に、子供は思春期から青年期で、なんらかの「傷」を受ける。そうして、心の一隅に「陰」を持つようになる。その「陰」を反発材料として、アイデンティティが形成される。大人になるって、そういうことだと思う。「好人物のまま」な大人って、たぶん不幸にも青年期が平和すぎたんだろうね。人生って、どこかで自分を否定されないと、澱んだままになってしまうから。精神を攪拌する(される)というプロセスは、もちろん無血では済まない。血を流すのを避ければ、芥川さんが冷笑する「好人物」の出来上がりとなる。

まるちょうは現在、友だちが非常に少ない。そしてたまに「友だちと思っている人」に会っても、わりと想定外の距離感を感じてしまったりする。そうしていつも帰路に、そこはかとなく「孤独」を感じるのだ。あるいは「友だちって、けっきょく幻想なんかな?」とか。もちろん、自宅に戻れば家族がいるので、癒やされるんだけど・・ でも最近こう思うんです「孤独にしっかり耐えられる人間こそ、本物の友情をはぐくめる」と。大人の友だち付き合いって、子供時代の延長線上には、あり得ないんです。「群れて楽しむ」時代は、とうの昔に終わったのだ。

ちゃんとした「大人」は、自分のアイデンティティを持っている。他者がずかずかとそこに踏み込んできたら、激烈に怒る。怒る権利があるし、あるいは怒らなければ、その人は「大人」という看板を降ろさなければならない。同様に「いい大人」である友だちに、不遠慮な同情はすべきではない。おせっかいは、友のプライドを微妙に損なうから。根底には「対等であること」という理想があります。ニーチェがこんなこと言ってる。

友への同情は、堅い殻の下にひそんでいるのがいい。同情を味わおうとして、噛めば歯が折れるほどでなければならない。そのくらいで同情に微妙な甘みがでてくるだろう。

総括。大人の友だち付き合いの根本は「孤独をまず友とすること」。友だちを独立した自我として認めるなら、節度のある距離感をおくこと。おそらくジャストな節度が生まれたとき、その友情は「美しい」でしょう。「好人物たること」は、友情の証ではない。それこそ幻想に近い。人は「みんなひとり」であるという認識から、他者を大切にできる。みんな違うから、お互いを尊重できる。竹内まりやが、そんなことを歌っています。最後に載っけておきます。

みんなひとり/竹内まりや

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生まれる時ひとり 最期もまたひとり

だから生きてるあいだだけは

小さなぬくもりや ふとした優しさを

求めずにはいられない