前回に引き続き「スモーク/ウェイン・ワン監督」をネタに、いろいろ語りたい。冒頭に、大事なシーンがある。作家のポールが「タバコの煙の重さを測れる」という、うんちくを述べる。つまり・・
煙に重量がある! 世紀の発見? ここで精確なツッコミを入れちゃう方は、たいそう無粋ですな。この「公式」は、しかと覚えておいてもらおう。キーワードは「ウソ」です。さて本題です。ラシードという少年の話をする。本作の一番哀しい話です。ざっとあらすじを記します。
ある時、ポールが車に轢かれそうになるのを、黒人の少年が助ける。ポールはお礼の印に、そのラシードと名乗る少年を自宅に数泊だけ泊めてやる。で、その数日後、ある中年の黒人女性が怒り心頭でポールの自宅にやってくる。「トーマスはどこに?」と。つまりラシードは偽名だった。彼女はトーマスの叔母で、育ての親。実の母はとうの前に死去、父は12年前に蒸発。つまり、虚言癖のある少年なのだ。そして叔母は語る「最近、あの子の実の父が、郊外の給油所で働いているという情報が入った」と。そう、トーマス少年は、いてもたってもいられなくなったのだ。
トーマス少年は、給油所で働く父にうまく接近して、バイト契約をする。観ていて一番胸が痛むのは、勤務後に現在の妻と子供が迎えにくる場面。三人仲良く帰っていくのを見送るトーマス。あれこれあって、結局「自分があなたの実の息子」であることを告白。ひとしきり修羅場のあと、父と息子、現在の妻と子供、そしてオーギーとポールで、気まずいランチ。
この「修羅場」で、殺し合いになってもおかしくない場面だ。父は過去の自分の「大罪」を目の前にする。そんなもの、今更見たくもない。少年は涙目でじっとこちらを見据えている。憎いのか? いや・・トーマスという少年は、虚言癖はあるが、基本的には気持ちのよい若者だ。おそらくどこかで父を許していたと思うんだね。だからこそ「ヘンなメンバーの気まずいランチ」というオチで、なんとか収束する。これ、とても東洋的な成り行きだと思うんだけど。和を以て貴しとなす、みたいな(笑)。このへんが文学的たる所以ですな。決して血は流れない。そして、もしかしたら本作の「コア」かも?と思えるシーンがつづく。映像があるので、ご覧ください。この電車のシーン。
S字状のレールを、心もち登り気味でのろのろ走る電車。セリフは一切なく、哀愁をおびた音楽と映像のみ。まるちょうは、このシーンが好きです。ウェイン・ワン監督のアイデアなんだろうけど、秀逸だと思う。セリフなしで、これだけ「人生という重苦しい道のり」を表現できるって、すごい。少し陰鬱で、悲哀があり、重々しいけど確かに前進する電車。
トーマスは、実父と再会した。この「気まずいランチ」が始まりなのだ。自分の血(=root)に向き合い、ようやく人生を始めることができる。監督は、トーマスに「安易な救い」は与えない。とてもリアルな映像的比喩でエールを送ったと考えるべきだろう。
最後に。本作は、普通の人が生きている「しみ」のようなものを感じさせる。誰しも長く生きていると、そうした「宿命的なしみ」ができる。それは、ある場合には絶望であり、敗北である。でも・・死んだらすべてが灰と煙になる。物質的にはゼロだ。ここで冒頭の「公式」を思い出してほしい。
煙に重量がある。これはずばり、機知に富んだウソです。本作はウソがたくさんでてくる。ウソはいけないって言うあなた! 人生という矛盾だらけのシロモノに、ウソは必要でしょ? 清濁併せ吞むということは、ウソも辞さないということ。強く生きるためには、むしろウソは必要なのです。ただ・・ウソまみれになってしまっては、人生は幻想に終わる。そう、煙(=smoke)になる。そうならないために、人は写真を撮り続け(オーギー)、文章を書き(ポール)、「血」から逃げない(トーマス)必要があるのだ。人生という「煙のようなもの」に、重さを与える努力をしなければならない。それはとても地味で、ナンセンスで、あるいは不毛な行為かもしれない。でも生きるって、結局そういうことじゃないかって。不毛と解っていて、それでも続ける。それが人生じゃないでしょうか。あの陰鬱な電車が、個人的には忘れられない。以上「スモーク/ウェイン・ワン監督」について、語りました。