スモーク/ウェイン・ワン監督(1)

「スモーク/ウェイン・ワン監督」を観た。1996年頃だったか、劇場でこれを観て、私は全く分からなかった。おすぎ(だったと思う)が「今年いちばんの映画」と激賞してたのに、私はさっぱりだった。あれからおよそ20年経過し、もう一度挑戦してみた。DVDというメディアは、分からなければ戻れるのがよい。本作のいわんとしていることが、なんとなく理解できたような気がした。実に「煙のような」作品である。人生の機微を、温かく、しかしドライに描き出す。文学的な匂いのする映画です。もちろん、喫煙シーンがふんだんに出てきます。愛煙家には懐かしい、1990年頃(笑)。次のふたつの軸で語ってみる。

#1 「ウソと盗み」について考える

#2 タバコの煙に重さがあるという説


今回は#1について。舞台はNYの下町、ブルックリン。タバコ屋の店主オーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)は、いつも朝8時に同じ場所で街角を撮る。写真はちゃんと整理して保存する。14年続けているので、もう4000枚にもなる。彼は「一生かけた俺のプロジェクトだ」と言い張る。作家のポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)は、いくつか小説を発表したが、数年前の事故で最愛の妻を亡くして以来、うまく文章を書けない。このふたりのオッサンが渋く紫煙をくゆらせると、どうにもサマになっちゃうから、医師としては悔しい(笑)。本作はこのオッサンたちを中心に、いくつかのストーリーが微妙に交錯して出来上がっている。

一番象徴的なストーリーを紹介する。ラストにオーギーが語る、奇妙な話だ。映像があるので、載っけておきます。本作のおおまかな雰囲気を味わうのには最適だと思う。簡単に文章化しておきます。



14年前、オーギーが店番をしていたら、若者が雑誌を万引きして逃げ去った。逃してしまったが、オーギーは彼の財布を拾う。財布には、身分証明と子供の頃の愛らしい写真が三枚。オーギーは情にほだされて、許してしまう。その年のXmas。オーギーは特に用もなかったので、ふと思いつきで財布を返しに万引き野郎の自宅を訪ねる。すると意外なことに、盲目の老婆(野郎の祖母だろう)が玄関に現れる。「来てくれたのね、ロジャー」大きく腕をひろげる老婆。とっさにオーギーは「そうだよ、おばあちゃん」と応えてしまう。気がついたら、玄関口でハグしている二人。オーギーは、あれこれ買い出し。祖母もワインを隠し持っていた。ちょっとしたXmasディナーになった。ほろ酔い気分で、オーギーはトイレへ。そこに新品のカメラが7つほど積まれていた。盗癖などなかったオーギーだが、ふと一台頂こうという気になった。リビングへ戻ると、祖母はもう居眠りしている。オーギーはロジャーの財布をそっとテーブルに置いて、カメラを持って部屋を出た。

この話の論点は「オーギーのしたことは正しかったのか?」ということね。彼のしたことは「ウソと盗み」である。でも彼の中に、いわゆる「悪意」は微塵もない。孫の「ふり」をしたことは、年老いた祖母を思いやっての行為だ。というか、とっさに身体が動いていたのだ。もちろん「哀れな盲目の老婆のために一肌脱ぐ」というほどの重さもない。すべては自然な流れに身をまかせて。それ以上でも、それ以下でもない。

オーギー曰く「ばあさんも分かっていただろう、俺がロジャーではないことを」と。つまり、暗黙のうちにゲームが始まったのだ。オーギーは特に拒絶しなかった。それだけのことだ。結果として、孤独な老婆は、楽しい疑似Xmasを過ごせたのだ。このときの「ウソ」って、どうなんだろう? ひとことで表現するなら「悪くない」かな? 馬鹿みたいな出来事だけど、どこか優しい、救いのあるエピソードだ。

ただ、カメラを盗んだのはどうだったか? これについては、オーギーも罪に感じ、数ヶ月後、カメラを返しに再訪した。でも、違う家族がすでに住んでいた。オーギーは特に写真の趣味も無かったが、それ以来、毎朝8時に写真を撮ることを日課としたのだ。それはある種の「懺悔」であり、過去の汚点をなんとかプラスに変えようとする行動だろう。「盗む」という犯罪を「写真を撮りつづける☞カメラを活かす」という、健康で生産的な行為に昇華している。その意志たるや、素晴らしい。どうせ盗品だろうし、これも「悪くない」んじゃない?

今回は、いったんここで切ります。上記のエピソードは、あくまでも本作のエンディングに、オーギーにより語られ、映像が流れる。要するに、なんとも言えない後味を観る人に植えつける。それは救いのようで、完全に救いでもない。ただ・・14年経過した1990年には、老婆はとうに昇天し、やんちゃなロジャーもこの世にはいない。すべては煙のように。次回は、もうちょっと踏み込んで書いてみます。