置かれた場所で咲きなさい

先日「置かれた場所で咲きなさい/渡辺和子作」という本を読んだ。その中で、気に入った言葉がいくつかあったので、ちょっと文章書いてみたい。こうした「言葉からインスパイアされて、文章を書くコーナー」というのを、考えています。Blogというのは、常にネタ切れとの戦いなのであります。トホホ・・

さて、本書はすごいベストセラーで、私の持っているのが第32刷である。渡辺さんは敬虔なクリスチャンで、多数の著書と受賞歴がある。御年85歳にして、本書を手がけられた。本書の特徴は、何よりもまず「読みやすいこと」。この分量に納めるのには、相当の「割り切り」が必要だったと想像します。とてもとっつきやすい構成にしてある。今回は、本書のタイトルそのままの言葉を引用してみる。

Bloom where God has planted you.

神が植えたところで咲きなさい。
この言葉を反芻するとき、いつも私の心の中で「化学反応」が起こる。やさぐれ内科医師の私を、温かく包み込んでくれる。一種の「慰め」なんだけど、それだけではない「真理」を鋭く突いているような気がする。以下、自分なりに記述してみたい。


やさぐれ内科医師・・多くは語りませんが、私という人間は、1992年に研修医となり、まっとうな道を歩んできませんでした。恥ずかしい話ですけど、学生の頃は血液内科に憧れていた。でも、研修医一年目にして、医師としてのレールから早くも脱落。双極性障害という大波にほんろうされる毎日。いつしか「血液内科」なんて、どこかへ消し飛んでました。ひたすら目の前の仕事をこなす日々。そうして2000年に、C病院(後にT診療所)とK診療所に定着しました。これまさに「神が植えた場所」なんですね。そこに「自分の将来を見据えた意志」みたいなものは、皆無なわけです。偶然と必然が交錯する「自然の流れ」で、そこに落ち着いた。まるでタンポポの種子が風に吹かれて、地面に落ちたように。

主に外来(健診)業務なわけですが・・最初の頃は、ひどかったと思う。体調もそれほど安定していなかったし、外来医としての能力や技術も、お恥ずかしいものだった。本当に毎回、死に物狂いだったし、終わったらヘトヘトだった。カネのこととか、将来のこととか、考える余裕も無い。とりあえず「目の前の仕事をなんとかこなす」こと以外、頭になかった。でも2003年にお蝶夫人♪と結婚してから、様相が変わってくる。やはり彼女の影響って、すごいと思う。外来業務に対する「問題意識」が芽生えてきた。手探りで、徐々に、本当に徐々に上向いてきたと思う。お蝶夫人♪の「健診業務は『医療的雪かき』じゃない!」と諭されたときの反省。あれは効いたな。結婚だって、いわば「神が植えた場所」なわけです。お蝶夫人♪は「神の恵み」なんですね。現在、私は自分の仕事を愛しています。学生の頃の「初志」とは異なる場所ですが、自分は大変に満足だし、幸せ者だと思っています。

「置かれた場所で咲きなさい」というのは、果たして「敗者のための慰め」だろうか? 「他力」の教えなんだろうか? 確かに「居場所を勝ち取るために戦う」という生き方もあるかと思う。でも人生、勝ち続けることは無理です。どこかで負ける。そして自分としては、不本意な場所へ追いやられる。自分の理想の場所を、いきなりつかみ取れる人なんて、ほとんどいないでしょう。そこで渡辺さんは、こうおっしゃる。

結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次へに出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。 どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

「根を下へ下へと降ろす」ということ。このプロセスは非常に重要だけど、決して目に見えない。「静かに下へ向かう」という姿勢は、尊いと思います。それは反省であり、謙譲であり、再認識である。いったん下に降りて、そこからまた、こつこつ始める。そうして、根は次第に太くなる。自分の居場所らしくなってくる。逆に、いきなり「玉座」に就いた人は、その後は落ちぶれるしかない。太い根っこが育っていないから。その人のアイデンティティは、意外に脆いのです。結局、自分の居場所は「探す」のではなく「作る」ものなんですね。そういう意味では「置かれた場所で咲く」というのは、決して他力ではなく、むしろ主体的な生き方だと言える。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉。「敗者のための慰め」という一面はあろうかと思う。特に私の場合ですけど、「自分の歩いてきた過去を許しなさい」という意味があると思うのね。不満や悔恨で満たされた「自分の過去」を肯定すること。太い根を張るには、まずそこからじゃないかしら。この言葉のいっとう底には、こうした深い思想があるように思います。以上「置かれた場所で咲きなさい」という言葉で、文章書いてみました。