近況・・プーシキン美術館展に行ってきた(本編)

38さて「本編」行きます。件の「ジャンヌ・サマリーの肖像」について、語らせて下さい。6月の体調の悪い時に、ネットでふとこの絵画を目にして、私の中で「気まぐれな嵐」が巻き起こった。「国境の南、太陽の西/村上春樹作」の中で表現される「吸引力」というやつだ。この絵は観る者の心に「多幸感」を催させる。これ、一種のテロですよ。善なるテロ。今回のプーシキン美術館展の驚異的な動員数は、この絵の「気まぐれな吸引力」がもたらしたと言っても、過言ではないでしょう。この絵画を、私なりに記述してみる。

まず目を引くのがピンク色の背景。概して背景色としては、暗い緑や青などの落ち着いた色が多い。というか、背景色にピンクを採用した肖像画なんて、寡聞にして知らない。そしてルノワール独特の柔らかい筆致で描かれる、ジャンヌの輪郭。とてもふっくらとして優しい。全体に暖色系なんだけど、衣装に青緑系の寒色系を配置することで、絵全体が引き締まる。そして表情。別名「夢想」と称されるこの表情は、観るものをうっとりさせる。瞳だ! この瞳こそ「夢みる乙女」を象徴している。そしてトドメに、左の口角が微妙に上がった赤い唇。微笑みなのか、あるいは彼女の秘めたる小悪魔性なのか? おっさんを惑わすなよ。全体にラフな筆致(筆触分割といわれる印象派の特徴)で、それがこの絵にある種の「勢い」をもたらしている。中心は「まどろむような瞳」なのだが、絵画全体で何かしら「動き」が感じられる。まさにその「動と静」の矛盾が、本作の奥行きを創りだしている。


なんて罪な奴。有頂天になった自分を、あとで振り返って、すごく恥ずかしくなる。俺が西城秀樹なら「悔しいけれどぅ!」と悶えるところだ(笑)。つまり、この絵画に対する私の想いは、すごく複雑なんです。ひとことで言うと、やっぱ「恋」に似ているのかもしれない。でも私はれっきとした46歳のおっさんです。「恋」という幻想に対する免疫は、ちゃんと備えているつもり。そこで、この絵のどこに「強烈な善の魔力」が秘められているのか、調べることとなる。マジックなんてものは、タネ明かしされないほうが美しい。無邪気に驚いて、ワクワクして、ときめくのが一番。変に懐疑的になって、どこにタネがあるのか詮索するのは、全くもって無粋である。でも私もいちおう大人だ。無邪気な大人というのは、ある意味で軽蔑の対象になりうる。というか、私には「ほのかな悔しさ」があるのだ。あの絵画のどこに「魔力」が潜んでいるのか。これはもう、素朴な疑問でさえある。無粋と知りつつ、この絵画のコアへ踏み込んでいきたい。

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モデルのジャンヌ・サマリー(1857-1890)は、コメディ=フランセーズで人気を博した女優である。本作は1877年の作品なので、彼女がちょうど20歳の時の肖像画ということになる。ちなみに彼女は、腸チフスにより33歳という若さで他界した。彼女はルノワールのお気に入りのモデルだったようで、10点近くの絵画が残されているそうだ。さて、彼女の実際の肖像写真を二点、紹介しよう。f6ae9f4bd8e4125972424ed4215c1ec0雰囲気としては、肉付きがよい大柄な体格。そして、凛々しい顔立ちの持ち主であったことがわかる。また舞台では、粗野な田舎娘の役を得意としていたという。

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の描いた絵とリアルな彼女(あくまでも想像だけど)を比べてみよう。なにがしかの「乖離」を感じてしまうのは、私だけだろうか? 乖離というか、デフォルメ・・もっと言えば「美化」かな。ルノワールの中の「理想化されたジャンヌ」こそが、本作として結実したという説。どうでしょうか? 突然ですが、ここで「人間失格/太宰治作」の中の一節を、ちょっと引用してみます。

美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を・・(後略)



ここで私が主張したいのは、ルノワールの「主観」です。彼が、ジャンヌをどのように想っていたのか。私はずばり、こう思うのです。この絵を描いている時、ルノワールはジャンヌに恋していたのだと。ルノrenoir1ワールは、その恋心をためらわずに正直にキャンバスに塗りこんだ。当時36歳のルノワールが、20歳のジャンヌに恋心を抱いたとして、何の不思議があろう? 私は断言したい。ルノワールは、この絵を描いていて、とても幸福だったのだ。背景にピンクを使うという冒険も、そうした「なにか飛躍した心もち」がないと、できないと思う。ルノワールそのものが、多幸だったのだ。心理学的に表現すると、ルノワールの多幸が、我々観る者の心に投影されているという構造ね。彼は表現者として、羞恥とか体面とか、そういうしょうもないバイアスを捨てて、ジャンヌへの心情を忠実に描いたんだと思う。これを「勇気」と言わずして、なんだろう。

33歳で夭逝したジャンヌ。しかし、ルノワールの手により、今や永遠のアイドルである。本作の発表当時は、相当に酷評されたとの記事もある。芸術の真価の判断は、いつも歴史に委ねられる。この絵画のたどった数奇な運命を思い浮かべずにはいられない。芸術は長く、人生は短し。「夢みる乙女」ジャンヌとルノワールを、晩秋の夜に想う。以上、近況を二回に分けて記しました。