フォレスト・ガンプ/ロバート・ゼメキス監督(2)

前回に引き続き「フォレスト・ガンプ」より。#2「本当の愛って何だろう?」と題して、書いてみます。本作の表ストーリーはもちろんフォレストの人生なのだが、裏ストーリーは幼なじみのジェニーの人生を挿入的に描いてある。この対比で鑑賞するのも、とても味わいがある。フォレストの人生が光だとすれば、ジェニーのは影ということになるか。二つの人生はくっついては離れ、宿命的ならせんを描きながら、最後にしかと交錯する。そうして、ひとつの結実をもたらす。今回はジェニーの人生にスポットを当てて、記述してみます。

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フォレストとジェニーの邂逅は、小学校へのスクールバスの中だった。「ここに座っていいわよ」天使のような声を、フォレストは生涯忘れたことがない。彼の気持ちは、ここで決定された。それ以来、彼と彼女は「豆と人参」のように仲良しになる。幸せな日々・・ でもジェニーはいろいろ問題を抱えた女の子だった。母は彼女が5歳の時に他界。父はアルコール依存で、ジェニーに暴力と性的虐待を繰り返す。彼女曰く「神様、ここから逃げられるよう鳥にして下さい」と。要するに、愛情を十分にもらえなかった子供だ。父は結局逮捕され、ジェニーは祖母に預けられる。

思春期以降のジェニー(ロビン・ライト)にとって、フォレストはあくまでよい友人。多数の異性と付き合い、次第に自分をすり減らして行く。薬物にまみれ、自殺未遂も・・ img_612758_20286167_0専門的な見方をすれば「境界性パーソナリティ障害」の傾向があると思う。愛に飢えているのに、確かな愛を育むことができない。どこにもたどり着けず、もがき苦しむ。すべては幼少期の苛酷な体験が原因になっている。

幾歳月すぎ、ジェニーはフォレストの家にやってくる。ずばり、行き場を失ったからだ。気まぐれな行動との謗りはあるかもしれないが、フォレストは快く受け容れる。はかなく蘇る幼き日の「豆と人参」の二人。フォレストとジェニーは一度だけ交わる。ジェニーはフォレストを愛してはいない。それはおそらく、ある種の「お礼」のようなものだったろう。ジェニーは自己評価が低い人だったし、フォレストから真剣に愛されることを恐れていたと思う。翌朝、逃げるように家を出て行く。

しかし、フォレストJrの出産と育児の中で、ジェニーの精神の病はいちおうの解決がついた。本当の愛が何か、ようやく気づいたのだ。しかし・・心の病は収束したけど、今度は身体的な不治の病。おお、なんという悲運。2010-5-3_6ウイルス感染とあるので、おそらくエイズだろう。フォレストは結婚に同意し、ジェニーの看病を始める。

死期が近いジェニーの病床での会話が大好き。私はここで、いつも泣いてしまう。ベトナムでの極限の中で体感した美しい夜、エビ漁の頃の輝かしい夕焼け、大陸を横断して走っている時の壮大な自然のことを話すフォレスト・・「あなたと一緒にいればよかったわ」とジェニー。「一緒だったよ」とフォレスト。ちょっとはにかんで、フォレストの手を握る。そして「愛してるわ」の一言。ここの言葉少ない静かなシーンが、とてもよい。見つめあう二つの瞳と、微笑み、そして少しの言葉。

したがって、フォレストはジェニーの人生を救ったのだ。ジェニーは亡くなったけど、フォレストJrを愛する人に託して、満足に息を引き取ったことだろう。そう、愛に包まれて。結局のところ、フォレストはジェニーに何をしたんだろう? 恋愛において必要なスキル・・駆け引き、誘惑、甘い疼きに身を委ねるetc.. そうした「悪魔的な」スキルって、阿呆には所詮無理です。「愚直さ」というあか抜けないシロモノで恋愛という戦場をくぐり抜けようとしたら、そりゃ敗戦続きなわけです。恋愛においては「悪魔」が、たいてい勝つのです。ここで、小説家カート・ヴォネガットが残した言葉を紹介する。

Love may fail, but courtesy will prevail
愛は敗北しても親切は勝つ

まるちょうは思うのね。フォレストの愛って、限りなく「親切」に近いんじゃないかと。”courtesy”という単語は、親切、丁寧さ、礼儀正しさ、品格、寛大さなどを意味する。そして、その底流には「一貫性」がある。フォレストの心の中には、いつもジェニーがいた。ジェニーが忘れても、フォレストは忘れなかった。安っぽい愛は刹那的で、そのうち壊れちゃうけど「親切に近い愛」は、愛する人を救済し得るのだ。フォレストは生涯ジェニーを忘れないだろう。それは「永遠の愛」の可能性を示唆している。個人的には、ジェニーの最後の微笑みが、忘れられない。ジェニーの墓はフォレストが「courtesyを以て」守り抜く。これこそが「本当の愛」だと思う。以上、二回に分けて「フォレスト・ガンプ」で語りました。