フォレスト・ガンプ/ロバート・ゼメキス監督(1)

「フォレスト・ガンプ」(ロバート・ゼメキス監督)を観た。Wikiによると「ガンプ」という名前は、アラバマ州の方言で「gump=うすのろ」という意味があるそうだ。本作はまさに「うすのろ」の人生を、印象深く描いている。1995年のアカデミー賞作品賞含む6部門を制覇。

この映画を観たあと、何かが心に残る。すごく熱い何か・・自分を代弁してくれる何か。自分がまさに「うすのろ」であるという共感があると思う。この「熱く残る何か」を、しかと文章化しておこうと思う。次のふたつの軸で語ります。

#1 風に吹かれる羽毛のように
#2 「本当の愛」って何だろう?

まずは#1から。ずばり言いますが、まるちょうは正真正銘の「うすのろ」です。その他「阿呆」「馬鹿」「間抜け」「愚か者」・・いろいろ言い方はあるだろう。フォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)は生来、知能指数が低くて、学校ではいじめられてばかり。でもフォレストは、バカ呼ばわりされた時は、必ず母から授けられた言葉を言い返す。

Stupid is as stupid does
バカなことをするのがバカなのだ

これ、とてもよい言葉。阿呆は始めにありき、ではない。つまり、神様は生まれつき「阿呆」を創ったりしない。一見低能にみえる人でも、誠心誠意おこなうことは、他者から「阿呆呼ばわり」される筋合いはないのだ。むしろ、五体満足に生まれて「命を浪費するかのように」生きる人間こそ、阿呆なのだ。軽蔑されるべきなのは、明らかに後者である。

真っ正直に生きることって、不細工だろうか? まあ、格好よくはないよね。でも「脇目もふらず、何かに打ち込む」という姿勢がある限り、とても生産的な生き方とも言える。それが証拠に、フォレストは様々の業績を成し遂げてきた。フットボール、軍隊、そして卓球での活躍、エビ漁での成功、大陸横断の不思議なヒーロー。これらは全て「人生を疑わない」という態度から来ている。「愚直さ」って、最後には勝つんだよね。何かを成し遂げるために、一番の障壁は「自分に対するゆらぎ」である。ぶれない心こそが「生産」には必要だと思う。

懐疑主義って、いろんな効用があると思う。リスクを予め感じて、それを避けて安全に進む。あるいは問題意識を持って、モノや人間、社会をみる。そこから生まれるのは、洗練であり狡猾さであり、平穏じゃないかな。でも、懐疑主義の底にあるものは、ずばり「悪」だと思う。対象に含まれる「悪」を見つけ出すには、自分の中に「悪」がないとダメ。だから、精神的に大人になるためには、どうしても「悪」が必要なんです。というか、いかなる人間も「悪」を完全に排除することはできないよね。どんな人間も、神にはなれないのだから。

ただ、フォレストはある意味「悪の誘惑」から一番遠い存在だと思う。疑うことを棄てるのって、とても勇気がいる。それこそ、阿呆にしかできない芸当だ。でもこの「勇気」こそが美しいのであって、観る者の心を打つんだな。結局フォレストは、我々に「純真」「単純」「品格」「本当の愛」について、思い出させてくれる。いつの間にか「大人になり果てた」自分の穢れに気づかせてくれる。それはノスタルジーに近いものがあると思う。



本作の冒頭とラストに「羽毛が風に舞って飛ぶ」シーンがある。これはまさに、本作のテーマを象徴している。Wikiによると、巨額の費用(邦画が一本撮れるくらいの)が投入されたらしいが、それだけの値打ちがあると思う。羽毛は人生のメタファーじゃないかしら。風に吹かれて上がったり下がったりするが、これは人生が意志と運命のせめぎ合いに揺れるさまに似ている。ここでロバート・ゼメキス監督が一番言いたいのは、羽毛の軽やかさだと思うのね。軽やかさとは、つまり素直さです。人生に向かって吹く風に逆らわず、飄々と飛ぶように生きなさい・・そういうこと。矮小なこだわりを捨てて、厳しい運命と友となり、淡々と生きるという一種の理想を象徴していると思う。次回は#2 「本当の愛って何だろう?」と題して書きます。