漫画でBlogのコーナー! 例のごとく、お気に入りの短編漫画をネタに、ひとつBlog書いてみる。今回はちょっと冒険で「浮浪雲/ジョージ秋山」より「定八の結婚」を採り上げてみる。ジョージ秋山の作品は、はっきり言ってBlogにしにくいのですが、この短編は思い入れが強いので、ちょっと挑戦してみます。さて、どうなるか。まずは、あらすじから。
三十路やもめの雲助、定八。学問はなく、でぶで足も短い。はっきり言ってモテないタイプだ。ある日、荷物を運んでいると、道ばたで倒れている女性がいる。名を「お滝」というその女は、息を切らして顔も真青。とても歩ける状態じゃない。定八は心配になり、荷物を置いといて、お滝を家まで乗せて行ってやる。すると家にも、寝たきりの老婆が。
どうしても気になる定八は、お滝のもとへ薬や食べ物などを届けるようになる。そのうち、ちょっとうきうきする定八。おカメに若い健康的な娘を紹介されたりもするが、あまり定八は気乗りがしない。やっぱりお滝の存在が気になる。そんなある日、定八はお滝の家に呼ばれる。一張羅を着ていそいそと訪れると、お滝は裸でみそぎの最中。彼女は肉体でもって、定八にお返ししようとしたのだ。というか、それぐらいしかできないと。でも定八は「そんなんじゃない」と否定する。「俺はおめえを嫁に欲しい」「ど・・どうして」「惚れたからだよ」「それは違います」「どう違うんだい」「定八さんは同情しているだけです」「そんなんじゃねえやい」
定八は浮浪雲にどうすれよいか、相談する。浮浪は何も言わず、夜鷹(淫売)を買いに、定八を連れてでかける。そこにいたのは、他でもないお滝。浮浪いわく「人に相談しようなんてのは、まだ打算のうちだ。あの女にゲロさせろ。そしておまえもゲロするんだ」と。
お滝は自分の体を売って、生計を立てていた。病気の母の介護もある。そして、体の不調は妊娠のためだった。誰の子かもわからない。そんな「どん底」に生きる女、お滝。でも定八は、それだからこそ、彼女を放っておけない。「じゃあ、あしたな。俺の顔をみたら笑うんだぜ。それが返事だぜ」
定八は翌日、浮浪雲に自分の子供の名前を考えて欲しいと申し出る。浮浪が「誰のでんす?」と訊いたら「あっしの」との返答。浮浪いわく「定八、あんたは素晴らしい人ですね」と。そしてラストシーン。定八が走る。独り待つお滝のもとへ走る。「お滝!笑え、笑うんだ!」お滝はわなわなと震えながら泣いている。鼻水さえ出ている。「これでも笑っているんです・・」
この短編を読むたび、すごい涙が出る。鼻をすすってしまう。定八という男が、まったく他人と思えないのである。愛は奪うものか、あるいは与えるものか? ここで「与えるものだ」と言う人は、キザで偽善者なのかもしれない。それは、最終的に相手を奪わなければ、愛は完結しないから。でも、まるちょうは敢えて言いたい。愛は「与えるものだ」と。定八の愛は、まったく「与える愛」である。三十路にして、この愚直さはどうだ。「白痴」という称号を与えてもいいくらいだ。
要するに定八という人は、とても男性的なんです。根っからの「男おいどん」なわけです。ある意味、唐変木だけど、ものすごく優しい。この優しさには、底がない。水を入れたら、だだ漏れである。こまったもんだ。こういうのを難しく言うと「自己犠牲」という言葉になる。でも本人は「犠牲」だなんて、これっぽっちも思っていない。「与える悦び」に酔いしれているから。
「俺は学問もねえ。それに下品な雲助だ。おまけにでぶで、足も短けえ」「あたしは夜鷹なんだよ」「確かに俺はおめえに同情した。病気のおふくろをかかえて大変だろうってな。こんな俺だ、同情する側にまわらなきゃ、女が俺のほうをむいちゃくれねえ。このまま一生同情させてくれ」息を切らしてふたり。「馬鹿だよ、定八さんは。わたしは夜鷹なんだよ」「夜鷹だってなんだっていい。俺は俺の一生を賭けて、おめえを買いてえ」
愛とは、ある意味盲目的なものです。というか、盲目的だからこそ美しいんです。そこに打算や懐疑が入ってくると、みるみる愛はにごる。味気なくなる。この短編が美しいのは、定八とお滝という二人のキャラが、あまりにも運命的だから。愛って、運命を信じるところから始まると思う。つまり、盲目でなければならない。
定八は、運命を信じた。だからこそ、誰の子かもわからないお腹の赤ん坊を、自分の子として育てようと思った。これは運命を受け容れる行為なんだね。天が与えて下さった運命、試練を、拒否せずに静かに受け容れる。もちろん、定八なりの葛藤はあったはずですよ。そういうのを逃げずに乗り越えて「すべてをありのままに受け容れる」という状態が可能になる。ここでも、打算や懐疑は御法度です。それでこそ、漢(おとこ)だよね。
目隠しをして歩くのは怖い。当たり前だ。しかし、盲目でないと捉えられない「何か」って、あるように思う。目が見えるからこそ、いろんなノイズを拾って、怯えてしまう。人生は、ある面では「賭け」に近いものがある。いつも計算なしに賭けてばかりでは、到底持たないけど、人生の節目で「自分の直観にしたがって賭ける」という場面は絶対に出てくる。定八はお滝に賭けたのだ。ピンときたのね。恋愛って、そろばんじゃなくて、この「ピン」だと思うのね。健康的で満たされた娘にピンと来なくて、幸薄いお滝にどうしても惹かれてしまう、この定八。彼は極めて愚直に、しかと人生を切り開いた。目隠しで、大きな一歩を踏み出したのだ。
ラストが勇ましくてよい。これ、いつ見ても泣けるね~ 「お滝!笑え、笑うんだ!」と駆け寄る定八の格好いいこと。お滝の涙と鼻水でぐしゃぐしゃの表情・・人は心の底から救われたときは、こんな顔になるんじゃないか。ジョージ秋山は、心情を描く天才だと思う。このお滝の表情は、究極です。以上、大好きな「定八の結婚」をネタに文章書いてみました。