三日の深夜に思ったことを掘り下げてみた

正式なBlogとしては、今年初めてになります。改めて本年も、まるろぐをよろしくお願い申し上げます。新型iMacもほぼ軌道に乗り、体調も戻りました。ご心配かけて、すみません。さて、今回のネタは、三日の深夜にふと思ったこと。この感情を深く掘り下げてみたい。

その夜に行き着くまでの流れを、ざっと記しますね。大晦日に新型iMacを起動不能にしてしまい、いきなり修理のため工場送りとなる☞そこから、双極性障害の増悪。見事に躁うつの波が出来上がった。お蝶夫人♪に怒鳴ったり、過眠になったり・・ 波乱万丈の新年幕開けだ~ 周りはたまったもんじゃないよね。その文脈で、三日の夜は20時ごろから意欲低下☞五時間ほど寝る。起きたら、深夜1時で家族はみな寝ている。四日は仕事始めで、しかも恐怖(ほんま、いつも怯えてますもんw)の金曜外来。まだ明日の準備もしていない。自室でゴソゴソやり始める。とりあえず、プチヨーガでもすっか・・ 頭と体がまだ寝ている。ヨーガして、あるていど覚醒しなければ、何も始まらない。


その時の心象風景は・・ ひとことで言うと「停滞」だった。あるいは「無」「カオス」だったかな? 自分を牽引していく何かが足らなかった。いったい何のために俺は存在しているんだろう? ニーチェの言う「重力の魔」が、俺を支配していた。そこでふと、あるツイートを思い出したのね(画像)。26躁うつの渦中で彷徨っている自分に、このツイートは明快に答えてくれた。そう、明日俺を待っている患者さんがいるじゃないか。俺は必要とされているんだ。自分はちゃんと「用があり」「どこか行くこと」があるんだ。ちょっと大げさだけど・・「俺 は 生 き て い る」・・そう実感して、しばらく感動していた。今思うと、瞑想の状態に入っていたんだね。件のツイートを思い出したのも、大げさに言えば天からの啓示だ。ありがたや~ なんか力が湧いてきたぞ。でもこれ、すごく逆説的なのかもしれない。

例えばニートなんかは、こうした「社会の中で必要とされる」という実感が乏しいと思う。これって、すごく「生きづらさ」を増幅させると思うんだけど。何らかの「必要」があれば、善し悪しはあるにせよ、人は動かざるを得ない。そして人間って動きだすと、体も頭もどんどん加速していくのね。結局人間には「背中を押してくれる何か」が、欠かせないと思う。「自分は必要とされている」という意識が、その人のアイデンティティ形成にどれだけ寄与しているか。まるちょうは、1997年に半年間休職したことがある。この時期はまさに、ニートの辛さみたいなものを実感することができた。本当に自由だったけど、孤独で何をしたらいいか分からなかった。まるで自分が空気のような存在になった気分だった。実体験した者が言います、これは「地獄そのもの」です。

話がそれました。三日の深夜、そうしてまるちょうは力を得た。もちろん、まだまだ躁うつの波の中だったので、集中力はまだない。なんとか仕事の準備をして、ネットをぼーっとして(こうした時は、無為にネットをすることが多い)、ようやく床に入ったのは午前4時頃だったと思う。もちろん、こうした時は熟睡などできない。仮眠をとって、なんとか出勤したのでした。電車の中では、音楽も聴かず、ただ目を閉じてエネルギーを無駄に消費しない。円町駅で降りて、診療所に向かう途中、一番心配だったのは「うんち」。そう、おとといから排便がなかったはずだ。外来業務で一番恐怖なのは、尿と便のトラブルである。一度、IBSの患者さんが「先生、お腹痛いねん・・」との訴えを聞いて「俺も痛いねん!」と内心泣いていたこともあったっけ(笑)。

しかし・・患者さんを診るということは、不思議なものである。不思議と診療が始まると、あれほど不安定だった体調が、徐々に収まってくるように思う。すみません、これはあくまでも私見ですが・・ 私にはそういう感覚があるんです。人を診ることにより、逆に癒されるという構造。仕事に集中するということもあるけど・・ 私はあえてこの「診療の双方向性」を主張したい。これはとりもなおさず「自分が人の役に立っている」という充足感からきている。診療することにより、ぶれていたベクトルは「人を診る」という軸に収斂されていく。もちろんこれが長時間になると、ストレスにもなるんだけど。

さて、実際の外来は七時間の長丁場となり、途中で下腹部痛(緊満!)出現(躁うつに伴う便秘型IBS)☞トイレに駆け込む☞大量の尿と便を排出。あれで切り抜けたね。ふう~( ;´Д`)

最後はとりとめなくなりましたが、要するに道場六三郎の言葉についてのツイートを思い出して、自分の存在意義(大げさに聞こえますが、そのときは本当にそうだったんです)を確認した、というお話でした。