「パーソナリティ障害」(岡田尊司作)を読んだ。かつては「人格障害」という呼称だった。病気というよりは「状態」と考えた方がいいかもしれない。例えば、どんな人でも親族の中にひとりくらい「変なおじさん(おばさん)」がいたりするでしょう。まるちょうも二人います。ひとりは70代になる叔母、もうひとりはいとこ。彼は不幸にして、数年前に40代の若さでこの世を去った。叔母もそうだけど、このいとこの人生について思いを巡らすと、どうしても「生きづらさ」を感じてしまう。そして「生きづらさ」ということなら、自分のこれまでの半生における「生きづらさ」も結局、包括して考えるべきではないかと思うようになった。
「パーソナリティ障害(以下、PD)」とは、偏った考え方や行動パターンのために、家庭や社会生活に支障をきたしている状態のこと。現代人が抱える「生きづらさ」について、本書はとても具体的に、しかし本質はちゃんと押さえて、記してある。専門的な箇所もあるが、とても読みやすく構成されています。次のふたつを軸に、二回に分けて書いてみます。
#1 PDとは何か
#2 まるちょうの「生きづらさ」について
今回は#1について。PDの本質を考えるとき、次のみっつの特徴が重要となる。
(1)自分に強いこだわりを持っている
(2)とても傷つきやすい
(3)対等で信頼しあった人間関係を築くことができない
上記みっつの背景にある重要なポイントは「自己愛が適切に育っていないこと」です。自己愛とは簡単に言うと「自分を大切にできる能力」。自己愛に障害があると、些細なことで自傷におよんだり、時には命を絶ってしまうことさえある。重い自己愛の障害を抱えている人にとっては、生き続けることは、大変な試練と苦行の連続なのである。
こうした強い自己否定感は、境界性PDに著しく認められる。それはまさに、自己愛が損なわれていることから来ている。逆に弱さや傷つきやすさを補おうと、自己愛が過剰に肥大している場合もある。自己愛性PDと呼ばれるものだ。PDには十種のタイプが存在するが、いずれも、損なわれやすい自己愛のさまざまな防衛の形態として理解することもできる。著者が分かりやすく説明した箇所があるので引用してみる。
離陸した早々に、片羽根が傷ついたからといって、人間は飛ぶのをやめる訳にはいかない。傷ついた片羽根を抱えながら、飛び続けるための必死の努力と対処の結果生み出されたものが、少し変わった飛び方であり、PDの人の認知と行動のスタイルなのだ。何不自由なく飛んでいる者から見れば、それは、少し奇異で、大げさで、危なっかしく、不安定に思えるだろう。ひどく傍迷惑なものとして受け止められる場合もある。だが、少々変わった、度の過ぎた振る舞いには、その人が抱えている生きづらさが反映されているのであり、傷ついた片羽根で、必死に飛び続けてきた結果なのである。
「離陸した早々に」という表現に注目して欲しい。これはとりも直さず、PDにおいて、人生の最早期がいかに甚大な影響を持ちうるかということ。つまり幼少期に親の十分な愛情が子どもに与えられたかどうか。著者は述べる「親が子どもに与えてやれる、もっとも大切でかけがえのないものは、自分を大切にする能力だ」と。そして、この人生の最早期が恵まれない人ほど、後の人生に悪影響がでやすい。ただ、PDの原因の半分は遺伝があるだろうと言われている。しかしながら、高血圧、統合失調症、1型糖尿病などの疾患の遺伝的要因の影響は、八割から九割に上るといわれる。だからPDは後天的な要因により、その発症がコントロールできる疾患とも言える。
環境的な要因としては、上記のように「人生の最早期」が一番重要である。しかし近年、PDが存在感を増していることを考えると、社会的な要因の関与を考えずにはいられない。つまり昨今、テレビゲームやインターネット、ビデオなど、いつでも一人で娯楽を楽しめるのが当たり前。昔のように地域で子どもが集まって、一緒に何かをして遊んでいた頃とは、形成されるパーソナリティが違って当然である。社会構造や価値観の変化は、現代人の心に色濃く影響を与えている。ひとつ挙げるとすると、日本社会はどんどん自己本位になっているのではないか。PDが根底に自己愛の病理を抱えているとすれば、PDの増加はうなずけると思う。アメリカにおけるPDの有病率は10-15%程度。10人にひとり以上の確率である。まさに、ありふれた疾患なのです。
以上、総論的な部分を要約してみました。上記には特に、まるちょうの私見は入っていません。次回は各論として、まるちょうのパーソナリティについて「語って」みたいと思います。今回はやや無味乾燥でしたが、次回は「まるちょうの血と肉」を感じられる内容になるでしょう(笑)。