丸長のメスが中央に近い五、六肋間に切り込まれた。そこからメスを左季肋上部まで走らせた。一度の切開で、皮膚から筋肉までが切り開かれたが、切り口からは血はほとんど出てこなかった。
「この下が心臓さ」
二度目のメスで丸長は心膜を破った。右手を傷口の間へすべりこませる。続いて左の指を差し込む。
「どうれ、どれ」
両方の人差し指と中指が上下の肋骨にかかったところで、ドアを開くように肋骨を上と下に押し開く。筋肉と骨がかすかに軋む音がして、傷口は楕円形に、手首までが入る大きさに押し拡げられた。
「簡単に開くもんですね」
丸長はマイケルの胸の内を覗き込んだ。
「いるいる、心臓の奴」
「どうですか」
「なるほどね」
藤壷は伸び上がったが、丸長のかげで胸の中は見えなかった。
「動いてませんか」
「フィブリレイションだ」
「フィブリレイション?」
「線維性の痙攣さ」
藤壷は思い出した。心臓が鼓動を止めてから完全停止に移行する間に起きる、止まる寸前の状態だった。
「助かりますか」
「どうかな」丸長は傷口から顔を離した。
「見てみろよ」
代わって藤壷が覗き込んだ。暗赤色の肺の上に、小さな拳ほどの鮮紅色の肉塊が、薄い膜に包まれて載っていた。それがマイケルの心臓だった。
「表面に小さな波のようなのが走っているだろう」
「ええ、ええ」
「それがフィブリレイションだ」
肉塊の表面を、微風になぶられた湖面のように小さな震えが流れていく。
「綺麗なものですね」
「生命の根源だからね」
「これが動くんですね」
「どらどら、のんびり眺めている時じゃない」
藤壷と入れ替わると、丸長はいきなり右手をマイケルの胸の中へ差し込んだ。
「いいか、俺は右手で心臓を動かすからね。お前はまた、前通りにバグを動かすんだ」
「はい」
「速さはやはり前と同じ一分間に18だぜ」
「わかりました」
「よし、始めてみよう」
丸長は、ちらと壁の時計を見た。午前0時42分を指していた。
「開始は0時42分。メモしておいてくれ」
「はい」
藤壷は左手でバグを圧しながら、右手で手帳に書きつけた。
「この黒人さんは、ロイケミーなんだよね?」
「CML(慢性骨髄性白血病)です。昨日入院したばかりで・・」
「お前は、この人の受持かい?」
「いえ、僕はまだ新米ですから。本当の主治医は五期上の高橋先生です」
「ああ、高橋君か。確か今は血液学会だったよな?」
「そうです。今は不在で、先生が頼りです」
「バカ言うな」
こうして話ながら、丸長は心臓を動かし、藤壷はバグを圧して呼吸をさせていた。(つづく)