小説 黒人の死ぬ時(1)

「先生! 心肺停止です!」


昭和45年の凍えるように寒い冬。K病院のB8病棟の深夜帯。たまたまそこに居合わせた丸長宏は、看護師に引っ張られ、個室の病室へ入っていった。そこにはもう一人の看護師が、患者に馬乗りになり、心マを施している。「ロイケミー(白血病)の患者さんで、急変時はやれること全て実施という取り決めです」と、看護師がまくしたてた。「ここは内科病棟だろう。内科の救急当番を呼べよ。CPR(心肺蘇生術)は一人じゃ手薄だ」丸長は返した。看護師は一瞬「ん・・」という微妙な表情を浮かべる。丸長は心マを代わりながら「なにボヤボヤしてるんだ! さっさと呼ばんか!」と看護師に喝を入れる。

心マしながら、患者の状態を確かめる。肌が黒かった。黒人か。ネーム・プレートには「マイケル」とだけ記されていた。アフロヘアーふっさふさで、枕元に黒いサングラスが、ちゃんとたたんで置いてあった。瞳孔をみると、かなり散大している。白血病細胞の心筋浸潤にともなう致死性不整脈だろうか。あるいは出血傾向をベースにした脳血管障害か。今夜はもう帰るつもりだったのに、とんだ急用が舞い込んできたな。13年目の外科医である丸長は、ある意味で「観念」しつつ、内科当番を待つ。長い夜になりそうだった。

深夜帯の看護師は二人である。一人は内科救急当番のコールと家族への連絡、もう一人は丸長のCPRの介助。丸長は心マ、看護師がアンビュバッグを揉んで、呼吸を確保。しばらくして、遠くからどたどた走ってくる足音が聞こえる。息も荒いな。ようやく来たか、内科当番め。そしてその人物は病室の入り口に現れた。若いのか中堅なのか、一見した感じでは分からない。小太りでプーさんのような体格。無精髭が濃くて、髪の毛はボサボサ。あまりお洒落ではないメタルフレームの眼鏡の奥に、人なつこいまなざしがキョロキョロと動いていた。


「すんません、遅くなりました! 内科当番の藤壷太(ふじつぼふとし)です」フジツボ? 丸長の脳内で残響のようなものを一瞬感じたが、すぐに我に返った。よく藤壷医師を観察すると、まだかなり若いようだった。「研修医か?」丸長が訊くと「そうです。一年目です」と返ってきた。

「そうか、もう入局して結構たつから、そこそこできるんだろう?」

「いや、その・・ なんとか、頑張ります」

藤壷は、頼りなさげな表情で、神妙にうなずく。

丸長は、心拍の再開しないマイケルの前胸部を凝視していた。

「事態は一刻を争う。胸を開こう」

丸長が言った。当時はCPRのやり方について、まだまだ定まった見解はなかった。外科医である丸長が、開胸でのCPRを考えたのは、ある意味自然なのかもしれない。

「まずは挿管しないと。お前、やったことあるか?」藤壷に訊く。

「まだやったことないんです」愛嬌のある顔が、哀しげに曇る。

「まあいい、俺の言う通りにやってくれ。君は至急、切開セットとイソジンを持ってきてくれ」

アンビュを揉んでいる看護師に、丸長が指示を出した。

「喉頭鏡を。顎をもっと突き出すようにして。そうそう・・」

喉頭鏡を持ちながら、丸長はマイケルの股間にチラと目をやった。トランクスからはみ出ている、長い棒状のモノが目に入る。な、なんだ、あれは、、 ・・なにやってんだ俺は。今、奴さんは呼吸が止まってるんだぞ。喉頭展開に集中しなければ。

「気管チューブを。声帯がよく見えるぞ。そうそう・・ よし入った」

スタイレットを抜いて、胸部の呼吸音を、藤壷に聴診で確かめさせる。

「左右の呼吸音OKです!」

藤壷の愛嬌のある声が、部屋に響く。

「よし、絆創膏を取ってくれ」

適当な長さに切って、丸長はそれでマイケルの口に開口器と気管チューブを固定した。余った絆創膏はマイケルの口から頬へ、×の字に貼りつけた。

「よーし、君はアンビュを規則正しく、ひたすら揉む。そうすれば、奴さんの呼吸は維持される」

藤壷がアンビューバッグを揉むと、マイケルの胸が盛り上がった。

「大体、一分間に18くらいのペースだぜ」

丸長は開胸に取りかかる。清潔の手袋をはめて、左胸中心にひろくイソジンで消毒する。

「だいぶ、調子をのみこんだな」

「こんなもんでいいですか」

「呼吸をしていないよりはいいさ」

皮肉を言いながら丸長は切開トレーからメスを取りあげた。

「ちょっと、呼吸を止めてくれ」

丸長は肋骨を数えると、五番目と六番目の肋骨の間に指を定めた。

「じゃ、いくぜ」

「あの、麻酔は・・」

「奴さん、意識がないんだよ」

「はい」

藤壷は目を伏せた。(つづく)