お題を決めて語るコーナー! 今回は「『大好き』って何だろう?」というお題で、ちょっと文章書いてみます。まるちょうという人間は「大好き」という感情から遠いかもしれない。いわゆる「熱しにくい」タイプね。小さい頃から「あれが欲しい」と言えない子だった。というか、自分が「何が好きなのか」がよく分かっていないことが多かった。心理学的に言うと「自我の薄い」という表現になるか。これは親にとってはすこぶる都合がよい。いわゆる「聞き分けの良い子」という扱いになる。でも・・人間の成長を考えたとき、自我が薄いままで困るのは本人だけではない。いつまでも社会に馴染めず、独り立ちできない子どもを抱える親自身が、困るのである。因果応報ってやつね。
柴門ふみの短編漫画に「家族の食卓」という作品がある。そこで提起されるテーマは、まさに「大好きを教える」ということだ。あらすじを簡単に記す。
結婚10年目の平凡で幸せな四人家族。夫は再婚で前妻とは死別。男の子は前妻の両親のもとで育てられた。そんなある日、夫はその男の子をうちへ引き取ろうと言いだす。妻の不安をよそに、17歳のタカシはとても控えめで素直な好青年だった。すぐに家族の中へ溶け込んでいくタカシ。一緒に生活するにつれ、妻はなぜ夫が彼を引き取ろうと言いだしたか、分かりかけてくる。「大好きっていう感情は分からない」とタカシは淡々と言う。「別にそれで惨めとか悲しいとかもないし・・」と。結局、彼は誰にも甘えたことがないのだった。妻は彼に「大好き」を教えてあげようと決意する。とにかく私たちは、あなたが大好きなのですから・・
柴門ふみは本作で「大好きという感情の大事さ」を主張する。まるちょうの思うに、何かを「大好きになる」というのは、一種のわがままであり、甘えである。だって、遠慮していたら「大好き」になれないもんね。タカシのストイシズムは確かに清々しいけど、大人になる準備という意味で、一抹の危うさを孕んでいる。なにより、タカシは孤独である。「誰かに頼る」ということを学んでいない。育児に関わってこなかった父は、そうした彼の「いびつさ」を案じている。悪い意味ではなく「潔すぎる」といういびつさね。でもね、社会に出ると「清潔すぎる奴」って、かえって疎外されちゃうことが多いんだよね。父が心配したのは、そのへんだろう。わがままを言って、甘えることの大切さ。そうして親と、やいやい言いあう大切さ。そうした家庭でのありふれた日常が、子どもを成長させる。柴門さんは、そのへんを表現したかったのだと思う。
「大好き」という感情の大切さは分かった。例えば、誰かを「大好き」になり、その結果失恋したとしても、人間の成長という観点では、得るものは多い。上記のタカシくんは、自我の殻のとても固い子だ。失恋なんてのは、その「自我を守っている堅牢な殻」が、ひっぺ返されるようなもんだ。もう、自分全体が否定されたかのような心もちになってしまう。でも、そこからがいわゆる「第二の誕生」なわけね。一度全部失ってからが、ホントの人生よ。大人になるということは、そうした「傷」を身体に馴染ませるプロセスだ。だから「大好き」っていうのは、大人になるための必要条件であり、その反動としての「傷」を受け止めるのが十分条件というわけ。
別の観点から考えてみる。決して「大好き」は永続しない。ここが人生の難しいところ。好き合って結ばれて、結婚生活が始まる。しかし「大好き」は、右肩下がりだ。いつしか「ただの好き」になってしまう。そう、熱狂はいつかは冷める運命にある。例えばAKB48も、五年後あるかどうかの保証はない。そういう意味では「大好き」という感情は、一種の幻想である。一方、その後に訪れる「ただの好き」こそが真実である。「恋が愛に変わるのが結婚生活」という言葉があったっけ? 恋は「大好き」で、愛は「ただの好き」だな。愛は熱狂ではなく、平静です。熱狂は単なる感情だけど、平静は「意志」です。だから愛は、永続しうる。そこに「意志」が存在する限り。
総括。「大好き」って何だろう? 大人になるために、必要な感情。「大好き」を抑えすぎては、精神が病んでしまう。でも「大好き」の反動はあり得る。青年期の宿命だな。そして、大好きで「ゴールイン」しても、「大好き」が幻想という罠が控えている。ここで幻滅しては、元の木阿弥です。すまん、人生ってきついねん。ぐっと辛抱できた人は「平静な結婚生活」の中で、真実たる愛をこつこつと育む。それは極めて地味な作業・・そう作業なのね。もはや感情ではない。根っこにあるのは「静かな意志」です。静かでぶれない意志。それさえあれば、愛は永遠である。以上、哲学臭くなりましたが「大好き」という言葉について、文章を書いてみました。