リビドーと論理/「マルタの鷹」より

お題を決めて語るコーナー! 今回は、古い映画「マルタの鷹/ジョン・ヒューストン監督」をネタに、ひとつ文章を書いてみたい。実は本作については2007年8月23日に簡単な感想を書いているのだが、自分の中では「書き切っていない」という感が、ずっとあった。学生時代に初めて観た時の「背中がぞぞっとする衝撃」・・あれは一生忘れないだろう。したがって、もう少し踏み込んで文章を書いてみようと思う。題して「リビドーと論理」。

この古い映画は、ストーリーとしては「マルタの鷹」という人の人生を狂わすほどの財宝をめぐって、様々な人間が絡み合い、ミステリアスな展開になっていく。つまり、話としてはかなり複雑なハードボイルドものなんだけど、ジョン・ヒューストン監督の描きたかったのはもっとシンプルな事柄だと思うのね。まるちょうの思うに、それはふたつ。ひとつは、主人公サム・スペード(ハンフリー・ボガード)の強烈なキャラ描写であり、もうひとつは「女の悪の取り扱い」についてだった。

「女の悪」の象徴として、性悪女オショーネシー(メアリー・アスター)が起用される。男を悪魔的な美しさでたらし込み、自分の味方につける。内に秘めた凶暴性とは裏腹に、男どもは次々と騙され、利用されていく。しかし痛快なことに、我らがヒーローのサムは、彼女の「妖しい美しさ」に対して、最初から懐疑的である。

サムというキャラは、とても複雑だ。基本的に女好きなのだが、どこかで「女という不確定性」を軽蔑している。それは決して「嫌悪」ではなくて、微笑みを以て軽蔑するといった具合なんだな。オショーネシーがしおらしく「無力な私を助けて下さい」と潤んだ瞳で訴えかけても、サムは「大した演技力だ」と突き放す。そして「君は危険な香りがする」とにやつく。このへんの描写がゾクゾクするのね。

学生時代に初めて観て「ぞぞっと」したシーンは、中盤のオショーネシーの部屋にサムが入っていくところ。オショーネシーは綺麗に化粧し上品に着飾って、サムを迎え入れる。彼女は「か弱いお嬢様」を演じるが、サムは「本当の君はそんな風じゃないんだろう?」とけしかける。サムがジョエル・カイロと会ったことを仄めかした瞬間、オショーネシーの態度が豹変する。ぶっきらぼうに暖炉に薪をくべて、タバコに火をつける。ここは全て無言。メアリー・アスターの凄い演技。オショーネシーが醸し出す空気が一変する。そして「You’re good. You’re very good.」とにやつくサム。この絶妙な塩梅が、若き日のまるちょうの脳天に一撃を喰らわせた。



That’s good coming from you.

What have you ever given me besides money?

Have you ever given me any of your confidence, any of the truth?

Haven’t you tried to buy my loyalty with money and nothing else?

What else is there I can buy you with?

本性をあらわしたな。

頭の中はカネのことばかりだ。

ウソばかりで、何の誠意もない。

カネさえ出せば済むと思ってる。

でも、お金は必要でしょう?

(→ここでサムはオショーネシーの唇を奪う)

この一連の流れが、青年まるちょうにとって斬新で、まさにため息ものだった。サムは私立探偵だけど、相当にやんちゃな人だ。だって、同僚の奥さんに手をつけてるし。これだけは言える。単なる正義漢ではない。懐深くに「凶暴性」を秘めた人だ。だからこそ、オショーネシーのことを「You’re very good.」と言ったわけだ。同類性の自覚というやつだね。相手があばずれで自分を利用しようとする性悪女だとしても、本能で惹き付けられたなら、それを否定しない。サムというキャラは、クールでかつ自分に正直である。

ラストは圧巻。サムとオショーネシーのやりとりを書き出してみよう。



Yes, angel, I’m gonna send you over.

The chances are you’ll get off with life.

That means if you’re a good girl, you’ll be out in 20 years,

I’ll be waiting for you.

If they hang you, I’ll always remember you.

Don’t Sam…Don’t say that, even in fun!

(中略)

All we’ve got is that maybe you love me and maybe I love you.

You know whether you love me or not.

Maybe I do.

I’ll have some rotten nights after I’ve sent you over, but that’ll pass.

そうだよ、刑務所行きさ

無期懲役だ。精進しな。

20年後会えるのを楽しみにしてるよ。

絞首刑になっても、君のことは忘れないよ。

やめて。冗談でもやめて。

(中略)

他に何があるっていうんだい?

愛してるのか?愛されてるのか?

あなたには分かってるわ。

たぶんな。

おまえを見送った後は、しばらく眠れないだろう。

総括。サムはオショーネシーに心を奪われている。話の流れでは、二人は肉体関係があると見てよい。キスも、中盤とラスト、二回しっかりしている。「内に秘めた悪」という共通の性質で、二人は強く惹かれ合っている。でも結局、サムは同僚のマイルズを撃たれたことに対する「おとしまえ」を、オショーネシーにつけさせる。これはサムにとって、ギリギリの選択だ。

All we’ve got is that maybe you love me and maybe I love you.

結局のところ、たぶん俺たちは好きあっているんだろうな。


(↑まるちょう独自の訳) 脚本はもちろんジョン・ヒューストンその人。この科白、痺れるねぇ。この科白を放心したようにカッと目を見開いて言うボギーが好きだ。自分のリビドーは、あえて曲げない。しかし、私立探偵としての筋は通す。

サムという男は、己のリビドーを的確に制限する人だ。肉欲があれば奪うし、凶暴性も隠さない。話すスピードも極端に速くなったり、無口になったり。その内在する「悪」の抑揚の自在さがあまりにも見事すぎて、目がくらむようだ。ここで断っておくが、サムはれっきとした紳士である。紳士だからこそ、心を奪われたオショーネシーを警察の手に渡した。ラストシーンは、警察に連行されたオショーネシーの無表情な泣き顔が晒されて終わる。彼女はエレベータで、サムは苦みばしった表情で階段を降りていく。「俺とお前は好き同士だったが、仕方ないな。あばよ」という感じで。

リビドーと論理。この相矛盾するふたつの間で、人間は苦しむよね。どこで折り合いをつければよいか、公式みたいなのは、残念ながら無い。結局各個人が、失敗しながら「自分にとっての『正中』」を見極めるしかない。しかしその『正中』は、一時もじっとしていない。経時的に動くシロモノだ。だからこそ、人生というのは常に危険と隣り合わせで、ニーチェが「一本のロープの上を歩いているようなもの」と言ったのもわかる。

本作はある意味で、サム・スペードという人物の「リビドーと論理の相克」を描いていると言える。最終的には論理を優先させるんだけど、彼自身も言っている。「人生には、ある一面とまた別の一面があるが、どちらがよいのか結局分からない」と。一片の微笑みもないラストシーンに、ジョン・ヒューストンの「人生をなめんなよ」というメッセージ性を感じるのは、私だけだろうか?(笑)

以上、「リビドーと論理」というお題でやや長い文章を書いてみました。