パルプ・フィクション/クエンティン・タランティーノ監督(2)

前回に引き続き「パルプ・フィクション」について。「#2 運命の交錯について」というお題でひとつ書いてみる。タランティーノが本作に、どれだけメッセージ性を盛り込もうとしたか。前回も書いた通り、単なる暴力映画ではない。観た後に何かが心に残る。それはずばり「運命の糸」だと思うのね。本作の主要な登場人物が、その運命の明暗をスリリングに描いている。

例えばマフィアの二人組、ビンセント(ジョン・トラボルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)の運命の明暗。まず起点は裏切り者を処刑するシーン。ジュールスの鬼神のような立ち回りで、裏切り者を銃殺する。その直後に、トイレに隠れていた男が飛び出して、二人を狙い銃を乱射。しかし、これが全部奇跡的に外れるのね。まさに九死に一生というやつ。そして弾の尽きた男は、あっけなく二人組に始末される。この現象をどう捉えるか。

ジュールスは奇跡☞神の啓示と捉えた。そして深い思索の領域に入っていく。一方ビンセントは、偶然弾が外れることは、わりかしよくあることだ、という姿勢を崩さない。「そんなに驚くことじゃないよ」という態度だ。「神の存在を感じた」ジュールスは極道から足を洗い、迷える羊として大地を彷徨う☞「本当の自分」を見つける旅に出る決心をする。もちろん、ビンセントは「バカじゃないのか?」と反論するが、ジュールスも譲らない。ここで、カップルのレストラン強盗が絡んで、固唾をのむ張りつめたラストシーンに突入するのだが・・

こでジュールスは、カップルの強盗に拳銃を向けられても全く動じない。どの双眸は極めて確信的で、相手を呑んでかかっている。ここのサミュエルの「目つき」が素晴らしい。役者は目だねぇ、やっぱ。最終的にカップルに相当額のカネを持たせて、逃がしてやる。これは論理じゃなくて、ジュールスのその時の本能だと思う。あるいは神の啓示のままに動いたというべきか。そうやね、あのシーンは、ジュールスに神が降臨していたね。タランティーノは、そういうつもりで脚本を書いたんじゃないかな? サミュエルは、その意図によく応えたと。



さてさて、その後の二人組。ジュールスは足を洗っていなくなる。したがってビンセントは一人行動となる。やがてブッチ(ブルース・ウィリス)の絡む事件が勃発。ブッチは逃亡するが、一子相伝の腕時計(このエピソードを長々と話すクリストファー・ウォーケンが最高w)を取り戻しに、のこのこ自宅へ戻ってくる。そこで見張り役でいたビンセントは、あっけなくブッチに殺されてしまう。ホントにあっけなく。もし、二人組のままだったら、運命は違っていただろうに・・ 運命論に対する軽視が、彼を死なせた? いやいや、タランティーノはそんなことは意図していないだろう。ビンセントは、たまたま運が悪かったのだ。でもやっぱり「運命のたられば」を感じずにはいられない。

前回触れた、脚本における「時系列シャッフル」という手法により「登場人物の持つ運命の糸」が微妙に交錯して、絡み合い、意外性や深みを与えることに成功している。本作で描かれる「運命」とは、すべからく「生と死」のことである。

生と死は、人生において常に隣り合わせである

この重要な命題を、普通に生きている人間が、どれだけ意識しているだろう? 極限状況なら理解しやすいこの命題。普段の安穏とした日常では、忘却の彼方にある。本作はこのざらざらした真理を、強烈に確認させてくれる。ひとことで言うと「覚醒」だな。無意識に眠る、この真理に対する恐怖、嫌悪、不条理を、観た後に「何か解らない圧倒的なもの」として意識させる。

さて、村上春樹の有名なフレーズを引用してみよう。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している

本作を観るにあたって、この言葉は思い出しておくべきだと思う。本作を観て、何らかのメッセージ性を感じ取り、自分のものにした人間は、上記のフレーズの真の意味を理解できるだろう。もちろん説教臭いことはない。とても男性的に「暴力と犯罪」を描くことにより「わかる奴はわかるだろうよ!」てな調子で語っている。「ノルウェイの森」はもちろん「恋愛」がベースにあったわけだ。でも核心にあるテーマは同じだと思う。つまり「生と死をめぐる不条理」。

医療者の端くれとして、最後にひとこと。まるちょうは病棟勤務はしないけど、一般外来や健診の現場で、いろんな受診者を観察する立場にある。したがって「人間の生と死」を微妙に感じ取る機会が多い。それは、その人の表情、体型、血圧、身体所見、簡単な検査項目と問診(生活習慣など)で。それで「生と死」が分かるの?と言われるかもしれない。でも、まともな医療者なら、それくらいの情報で、その受診者の【死】の影を感じ取ることができる。分析が主だけど、表情などからの「霊感」もある。医療者のプロとしてのアンテナをなめたらあかん。

さて、【死】は人間が生まれてから、年齢を重ねるにつれて、その体内で確実に育っている。一番厄介なのは、当人が自分の持つ【死】について、ほとんど無関心なこと。本当に無頓着な人が多すぎる。そして医療者は限られた医療面接の時間で、大した介入も出来ないのが現実。自分のふがいなさ、無力感に苦笑いする日々・・ でも、もちろん少ないながら、うまく介入できることもある。そうした時の受診者の「気づきの表情」が好きです。あれは医師として「仕事した実感」がある。おっと横道にそれた(笑)。

本作の効用☞生と常に隣り合わせだけど、日常に埋もれた【死】の存在を炙りだす。そして観る者の意識にそれを強烈に焼き付ける。まさに「良薬口に苦し」ですな! オッサン臭い締めくくりですんません。(笑)

以上、映画「パルプ・フィクション」について二回に分けて語りました。