「パルプ・フィクション」(クエンティン・タランティーノ監督)について感想Blog書こうと思う。本作を観るのは、今回で三度目。初め映画館で観たときは、内容をちゃんと把握できてないのにも関わらず、唖然としてエンドロールを眺めていた。「何だか分からないけど、凄い作品だ」・・それがその時の正直な感想。約15年ぶりにDVDで観て、改めてぶっとんだ。そして今回、かなり分析的にねちっこく観てみた。ラストシーンを見終わって出てくるのは、やはりため息。なんちゅー完成度。二時間半があっという間である。そういえばキャッチコピーが「タランティーノが時代にとどめを刺す」だったな。言葉通りになっているのが、悔しいけど凄い。本作は、それだけの「圧倒的なオーラ」をまとっている。感じたことを、自分なりに書き留めておきたい。次のふたつの軸で。
#1 絶妙な悪のスパイス
#2 運命の交錯について
今回は#1について。タランティーノ監督が映画をつくる上で一番大切にしているポリシーってなんだろう? まるちょうが思うに「とにかく面白いこと」・・これに尽きると思うのね。別の言い方をすると「観客を退屈させないこと」。映画をつくる哲学として「美しいこと」とか「考えさせる」とか「泣かせる」とか、いろいろあると思うけど、タランティーノは、まず「面白くなくては映画でない」という哲学があると思う。その哲学を踏まえた上で、出来上がった脚本。これ、素晴らしい。アカデミー賞も獲っている。Wikiで調べると「時系列シャッフル」という手法だそうな。これについては、次回触れる。
さて、本作の「悪の描写」について。ストーリー自体がマフィアの人間関係の中での出来事なので、すべからくそうなってしまうのだが・・ 一番印象的なのは、ヘロインを焼いて液状化して、注射器で静脈へ注入するシーン。どれも接写で撮影されており、極めて刺激的だ。まるで自分が共犯者になったかのような錯覚を抱かせる。犯罪の匂いと退廃の予感。それとラスト近くで出てくる「極悪ホモ野郎」。ごく普通の日常から、ああいう「狂気の世界」がひょいと出てくる意外性・・観客を震撼させる展開だ。これら「犯罪やら狂気の描写」は、まるちょう的には「タランティーノ一流のサーヴィス」と思っている。観客を退屈させないスパイスとしてね。
まるちょうは思う「スパイスとしての悪は、倦怠を突き破る炎である」と。本作において「悪」は、絶妙のバランスで挿入されている。それを観た人の心は「踊る」のだ。どんな人間の無意識にも「毒を好む性向」は、あると思うのね。法や良心により束縛された現代人の心は渇いている。つまり、本作は「中毒にならない程度の毒を以て、観客の心にカタルシスをもたらしている」のだ。ルールを破るということ☞麻薬、人殺し、強盗、八百長・・エンタメの枠内で「悪を程よく描くこと」は、全く許されてよい。軋みつづける現代人の心に、潤滑油として作用するだろう。合法的な悪の遂行なのである。
作中「fuck」という言葉が、数えきれないほど出てくる。男っぽい映画って、どれもそうかもね。そう、本作は極めて骨太であり、男性的な映画だと思う。一番象徴的なのが、サミュエル・L・ジャクソンの目つき。処刑を執行するときの、この目つきといったら! 聖書の一節を呪文のように唱える彼の目つきは、明らかに「狂気」を含んでいる。鬼神に取り憑かれたというかね。これは冒頭のシーンだけど、ラストの彼の演技も光る。同じ男性として、あの「マジでガチな目つき」は、何度観ても痺れてしまう。現代人がどこかに置き忘れてしまった「野性の魂」を感じるのね。彼の演じるジュールスという男は、哲学的な視点も多分に持っており、とても深遠なキャラに仕上がっている。そこもポイント高い。
本作では、人がいっぱい死ぬ。殺し、殺される。それはひどいじゃないかって言う人もいるかもしれない。でも、現実を見てみろ。社会生活の中で「目に見えない殺し合い」を避けて生きていけるかね? それほど現実は甘くないという認識は、誰しも持っているはずだ。そう、綺麗ごとなんて、クソッタレだ。本作はそう訴えてる。ただ・・本当にギリギリの線でバランスを保っている。全くのリアルを目の前に晒されたら、誰しも吐き気がするものだ。でも本作は「どこか詩的な雰囲気」をちゃんと最後まで漂わせている。単なるヤクザ映画、あるいは殴り合いの暴力映画に堕していない。この「ギリギリの平衡感覚」が神がかり的だと思うんだよね。荒々しい本作の中で、タランティーノ監督の一番表現したかったことは「悪を描くこと」ではないと思っている。悪はあくまでもスパイスなのだ。それについて、次回書いてみたいと思います。