七番目の男(レキシントンの幽霊より)/村上春樹作

引き続き「レキシントンの幽霊/村上春樹作」より。このシリーズも今回で終り。最後は「七番目の男」をモチーフに語ります。この作品も、読んでから何とも言えぬ余韻が残った。前二作と同様、読むだけで過ぎてしまうには、何かもの足らない感じ。こうしてBlogで自分の想いを書き留めておくことは、必要なことだと思う。本作は例の3.11と微妙にリンクしています。・・と、いちおう前置きして、あらすじへ移ります。

七番目の男が述懐する。五十代半ばの、痩せた背の高い男である。10歳の秋に、大きな台風が来襲。”台風の目”に入り、あたりがしんと静まり返ったとき。父の許可を得て、彼は散歩に出かける。偶然、仲良しのKと合流、そのまま浜辺へ。異様に潮が引いている。いろんな漂流物を目にして夢中になる二人。しばらくして、彼は「波の凶暴性」を直感する。急いで引き上げようとするが、Kは夢中で声が届かない。気持ちとは逆に、彼は一人で逃げ出してしまう。そのうち、異様なうねりから、凶悪な大波があっという間にKを吞み込んでいった。やがて第二波が、恐ろしい鎌首をもたげて立ち上がる。彼はもう呑まれてもいいと思った。しかし波は、彼の目の前で静止。その波の先端にKの姿をはっきりと認めた。Kは冷たく凍った一対のまなざしで、口が裂けそうなほどににやりと笑っていた。右手を差し出して、まるで彼の手を摑んで、そちらの世界に引きずり込もうとするかのように。・・彼は気を失い、それから一週間、高熱にうなされて生死の境をさまよう。


彼は一命を取りとめたが、Kの遺体はあがらない。彼は自責の念で苦しみ抜く。しばしば恐ろしい悪夢をみて、大声を上げて、汗びっしょりになり、息を詰まらせて、暗闇の中で覚醒する。やがて彼は転地を両親に訴える。このままでは、気がふれてしまう。年明けに長野に移り、そうして今まで暮らしてきた。しかし今でも、たまに悪夢を見ては、悲鳴を上げて汗ぐっしょりで夜中に覚醒する。そんなだから、結婚も出来ない。四十年以上、海に近づけない。プールで泳ぐのもやめた。川や湖もだめ。船も避ける。海外にも行かない。

昨年の春に父が亡くなり、財産処分のために生家を売却。物置を整理したところ、彼の子供時代のものがまとめて段ボール箱に詰めてあった。→彼のもとに届けられる。その中にKが彼のために描いた水彩画が一束あった。どうしても捨てられない。数日後、とうとう思い切って観た。意外にも、とても懐かしい気持ちになる。Kという少年の深い優しい心情が、ひしひしと伝わってくる。そのKの絵は「少年時代の私自身のまなざし」でもあった。あの頃、二人は肩を並べて、生き生きと曇りのない目で世界を見ていたのだ。何かが彼の体の中に、静かに染み込んでいく。もしかして、あのKの烈しい憎悪の表情は、その瞬間に彼を捉え支配していた深い恐怖の投影に過ぎなかったのではないか。大変な思い違いをしていたのではないか。そうして、彼はあの町に戻らなくてはと思った。それも、今すぐに。

例の海岸まで歩く。防波堤の階段をあがる。大きな海が広がる。まことに穏やかで優しい風景。四十数年前のあの恐ろしい記憶は、自分が作り上げた精密な幻影のように思えた。→ふと気づいたとき、彼の中の深い暗闇はすでに消滅していた。彼は、無防備に波の中へ入っていく。恐怖はもうなかった。もう何も恐れることはない。長い歳月のあとに、ようやく彼は「そこ」にたどりついたのだ。彼は人生を最初からやり直すことを決心する。


本作のモチーフは、ずばり「波」である。10歳のときの主人公が遭遇した「波の底知れぬ凶悪性」は、読んでいて震えるほどだ。その描写は、どこまでも精緻で迫力に満ちて、読むものの心を脅かす。あるいは3.11の津波も、こんなだったか?と想像せざるを得ないくらい、すさまじい描写です。

その波はたしかに生命を持っているのです。波はここにいる私の姿を明確に捉え、今から私をその掌中に収めようとしているのです。ちょうど肉食獣が私に焦点を定めて、その鋭い歯で私を食いちぎることを夢見ながら、草原のどこかで息を潜めているみたいにです。逃げなくては、と私は思いました。

本作における「波の凶暴性」に関する描写は凄いけど、村上さんが書きたいのはそこではない。エピローグとも言える主人公の言葉。ここに集約されていると思う。

私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものではありません。・・それは様々なかたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。

主人公の男にとって、事件から四十数年の生活は、ひとことで言えば「逃避」だった。四十年とひとことで言うけど、普通の人生の半分の長さだ。長すぎるよ。彼はその貴重な時間を「何も考えず、ただ逃げること」にのみ消費してきた。それほどの思考停止を引き起こす体験って・・ でも、リアルな私たちにも、十分あり得るんだよね。

逃亡の時間が長くなればなるほど、思考停止の拘束を解くのは難しくなる。例えば、いわゆる「引きこもり」なんてどうだろう? もちろん本人を急かしてはいけないんだけど、心の準備が整ったら、本人にとっての「壁」に、ちゃんと向き合わせることが必要だろう。そして何らかの「格闘」があって、ようやく本質的な問題解決となりうる。ずっと「目を閉じたまま」では、戦いようがないのだ。人生は、逃げていては損するばかりだ。いや、損得じゃなくて、逃げてばかりいる人生は「真に人生を生きていない」ということになる。前述の「引きこもり」じゃないけど、自分を檻の中に入れているのと同じだ。

思考停止の原因が、単に自分の作りだした幻影だった、ということも大いにあり得る。そうした幻影に足止めを食って、先に進めなくなっているという状況って、結構あるんじゃないだろうか? 言うまでもなく人生は「戦かってなんぼ」である。目を閉じてしまっては、相手が幻影なのか本物なのかも分からない。まず目をカッと見開くこと。全てはここから始まる。相手をしっかり見て、冷静に分析しよう。そして戦略を考えよう。そのうち、もし戦いが楽しく感じられてきたら、あなたの人生は幸福に満ちてくるだろう。すでに、人生そのものが楽しくなっているはずだから。自分の作り上げた幻影に、目を閉じたまま負けてしまうのが一番不幸だと思う。

以上「七番目の男」について書きました。これで「レキシントンの幽霊」については、いったん終了とします。