前回に引き続き「レキシントンの幽霊/村上春樹作」から、短編をネタに語ってみたい。今回は「沈黙」をチョイス。これも初め読んだとき、短編とは思えないメッセージ性、村上さん固有の重みのある「想い」を感じてしまった。つまり、単にストーリーを紡いでいるだけでなく、作者自身がこうした経験があったんじゃないかと思えるほど。主人公はまさに、村上春樹的な精神性の持ち主。物語だろうけど、それにしてはストーリーに「血と肉」がしっかり付いてるな、という感じの作品です。まずは、あらすじを記す。
31歳の大沢という男が学生時代の非常に辛い思い出を述懐する。彼は中学二年のとき、青木というクラスメートのことを心の底から嫌っていた。大沢と青木は、あらゆる面で対照的。大沢は無口、一人が好き、総じて目立たない少年。でも、ボクシング・ジムに通うのが楽しみだった。青木は、とにかく頭がいい、回転が早い、人望があり、非常に目立つ。しかし背後にあるエゴとプライドの匂いを、大沢は見逃さなかった。心の中で軽蔑していた。
ある日、英語のテストで大沢が一番をとる。彼は実際に英語だけ猛勉強したのだ。いつも一番が定位置な青木は恥をかかされる。数日後から「大沢がカンニングをした」という噂を青木が流しているという情報をつかむ。昼休みに青木を呼び出して、問いただす。彼はそらっとぼけて「何かの間違いで一番になったからっていい気になるな」と、大沢を軽く付くように押しのける。反射的に大沢は青木を殴っていた。左頬に思い切りストレートが入る。大沢はすぐに後悔するが、どうしても謝れない。
中高一貫性の男子校だったので、高校三年のときに、二人は再び同じクラスになる。夏休みに、松本という目立たないクラスメートが自殺。二学期に入ってから、クラスに奇妙な空気が流れる。五日後に大沢は職員室に呼ばれる。大沢がボクシング・ジムに通っていること、そして中学二年の時に、青木を殴ったことを教師に確認された。続けて「それで君は松本を殴ったことはあるか?」との質問。松本は学校でしょっちゅう殴られていたのだ。教師は「正直に言わなければ、警察の調べが入るよ」と。結局、大沢は警察で簡単な取り調べを受ける。結局証拠がないので、どうにもならなかったが、学校内には「警察に呼ばれるからには、何かあるんだろう」という空気が流れる。それ以来、クラスメートは徹底的にしかと。教師もかばわない。沈黙の苦しい毎日。食欲はなくなり、不眠がひどい。あと半年我慢すれば、卒業できる・・ でも無理かもしれない。
ちょうど一ヶ月後、通学の満員電車の中で大沢と青木は、偶然顔を合わせる。青木は冷笑気味に、大沢の顔を見ていた。「どうだ」と言わんばかりに。睨み合っているうちに、大沢には意外にも「悲しみと憐れみ」に似た感情が湧いてきた。お互いに睨み合っていたが、最後には青木の目は震えていた。ほんの微かだけど、はっきりわかった。足が動かなくなってしまったボクサーの目だ。これを境に、大沢は立ち直った。 あと五ヶ月、この沈黙に耐えようと決意した。 そうして立派に卒業し、別天地である九州の大学に入った。
大沢という人物は、明らかに村上さんを象徴したキャラだ。個人的で、孤独を好み、読書や音楽が好き。ボクシングというスポーツを選んだ理由について、以下を引用する。
グラブをつけて、リングに立っていると、ときどき自分が深い穴の底にいるみたいな気がします。ものすごい深い穴なんです。誰も見えないし、誰からも見えないくらい深いんです。その中で僕は暗闇を相手に戦っているんです。孤独です。でも悲しくないんです。
要するに、大沢は中学生にして「孤独の深み」を知っていた。早熟だったのね。対する青木をひとつの単語で表すと「機知」ということになろうか。「機知」は組織をまとめるためには必要な資質だろう。頭の回転が早くなければリーダーにはなれない。しかし、いかんせん浅い。風向きひとつでくるくる回る風見鶏のような属性である。悪く言えばね。
まるちょうは大沢と同じく個人的な人間なんだけど、「機知」にいい印象を持っていない。自分が「機知」に乏しいという劣等感もある。しかし、これまでの半生で「機知」を操る人間に、そしてその「組織」に痛めつけられてきたという辛い経験がある。現在フリーランスで仕事をしているけど、組織に関わりたくないのは、そうした理由がある。組織は、正直言って怖い。上記のあらすじにある通り、組織がふとしたきっかけで「暴力的なベクトル」を獲得すると、無力な個人は、あっという間に踏み潰される。作中、大沢はこう語る。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。
大沢は、しょっちゅう悪夢を見るという。そういうときは妻を起こして、しがみついて泣く。一時間くらい泣いていることもある。怖くて怖くてたまらないのだ。その悪夢の描写を引用する。
夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。沈黙が冷たい水みたいになにもかもにどんどんしみこんでいくんです。そして沈黙の中でなにもかもがどろどろに溶けていくんです。そしてそんな中で僕が溶けていきながらどれだけ叫んでも、誰も聞いてはくれないんです。
この夢の中で一番怖いポイントは「人々」に顔がないこと・・つまり匿名なんだね。そこには尊厳を持った人格というものが消失している。そして冷たくて陰鬱な沈黙が、容赦なく染み込んでいく。システムが暴力的なベクトルを持ったとき、人はどろどろに溶けていく。そして高潔な個人ほど、その汚水に呑まれていく。たぶんそうした「不信」を、村上さんも心の底でお持ちなんだと思う。以上、今回は「沈黙」を題材に語りました。