トニー滝谷(レキシントンの幽霊より)/村上春樹作

「レキシントンの幽霊」(村上春樹作)を読んだ。村上さんの短編って、はっきり言ってなめていた。「やっぱり村上春樹は、長編読んでなんぼでしょ?」みたいな。しかし、本作を読んで打ちのめされた。明らかに「読後の何か胸に残る感じ」があるのだ。「何もせず過ぎ去るには、あまりに濃い何か」とでも言えば、しっくり来るかな? 短編なのに、精読を要求する書物だ。というわけで、実験的に村上さんの短編で、ひとつBlog書いてみたい。まずは、映画化もされた「トニー滝谷」をチョイス。まず最初に、あらすじを記す。

トニー滝谷は出生後三日で、母を失う。父はもともと習慣としての孤独に馴染んだ人で、トニーもその性質を受け継いでいる。そうして彼は、孤独な青少年時代を送るが、画家としての才能から、経済的には全く困ることはなかった。誰にも心開くことなく、平静とした孤独の中で淡々と生活していた。ひとりでいることは「人生のある種の前提」でさえあった。

トニー37歳の時に、青天の霹靂のように、ある22歳の女性に恋に堕ちる。トニーは突然、孤独を感じ始める。孤独とは牢獄のようなものだ。その壁の厚みと冷ややかさ。迫り来る絶望感。しかし、女性はトニーを選ぶ。そうして、トニーの孤独な時期は終了。



幸福な新婚生活だったが、ひとつだけ問題があった。妻の「洋服を見たら買わずにいられない病」。彼女は洋服を買うことを「ただただ単純に我慢ができなかった」。これが元で、妻は交通事故であっけなく死んでしまう。そうして、膨大な数のサイズ7の洋服と200足以上の靴が遺された。途方に暮れるトニー。いろいろあって・・ 結局全て古着屋に売却。大量の服や靴などが収納されていた部屋は空っぽに。妻の記憶は次第に薄くなり、やがて曖昧な欠落感だけが残った。

妻の死んだ二年後に、父が癌で死去。古いジャズ・レコードの膨大なコレクションが残る。一年間、例の衣装部屋に放置していたが、だんだん煩わしくなる。結局中古レコード屋に引き取らせた。そうして衣装部屋は今度こそ、全くの空っぽになった。トニー滝谷は、本当にひとりぼっちになったのである。


本作は「人間の孤独」について、いろいろ考えさせてくれる。孤独には大きく分けて二種類ある。森の中の孤独と街の中の孤独だ。森の中で隠遁生活する者は、孤独だけど平静であり誰にも侵されることはない。そこには、ある種の自由があり、幸福とさえ言いうる。それに対して街の中で孤独を感じる者は、平静ではあり得ない。なぜなら本当の意味での孤独は、大勢の人間の「間」にあるから。途方もない閉塞感は、彼の心をじわじわと蝕む。彼は惨めな気持ちになり、ある種の不自由さを感じるだろう。ずばり、不幸である。

トニー滝谷は、上記の両方を経験した。37歳までの孤独・・隠遁者としての孤独は、彼にとって幸せだったのか? まるちょうは否と答える。人と心から交わってこその人生である。隠遁というのは、要するに「傷つきたくないから森へ逃げ込む」という所業に過ぎない。運命の人と出逢い「愛すること」を知ったことは、彼にとって不幸なわけがない。でも・・心を開いたら、それなりのリスクは発生する。でも結局人生なんて「もし何々を失ったら・・」というリスクとの戦いだもんね。トニー滝谷は不運だった。遺された大量の高価で優雅な洋服を、彼は憎んだ。村上さんは、ここの心象風景を「孤独が生暖かい闇の汁のように、彼を浸した」と表現している。

最後に彼は、からっぽの衣装部屋で本当にひとりぼっちになる。まるちょうは、この極限の寂寥感に戦慄する。ここでの孤独とは「以前繋がっていたものが、今はもう何もない」という欠落感である。そこには何の救いもない。村上さんは、厳しすぎる。トニー滝谷が可哀想すぎる。でも、村上さんの書きたかったのは、容赦ない完全無欠の孤独だったに違いない。「あなたは人を愛するとき、それだけの覚悟を持っているか?」と問われているようにも感じる。結局、愛と孤独は表裏一体なのである。本作を読むと、その厳しい真実を再確認することができる。対象を愛すれば愛するほど、それを失った時の欠落感はひどい。愛と孤独に関する「宿命的な逆説」を忘れてはいけない。愛は孤独を癒すが、時に孤独を深める。本作は、人生という不確かで矛盾の多い道のりが、結局ひとつの孤独に帰趨するという、抗い難い真実を描いている。この一種独特な読後感は、読んでみないと分かりません。興味のある方は、一読をお薦めします。



本作は映画化されている。監督は市川準、トニー滝谷はイッセー尾形、妻は宮沢りえ、音楽は坂本龍一。ラストは原作よりも若干、マイルドになっているみたい。「丁寧に作られた佳作」との評価。興味のある方はどうぞ。

以上、今回は「トニー滝谷」をネタに語りました。