我々は、なぜ働くんだろう?(2)

前回からのつづきで「労働の意味って何だろう?」と題して、語ってみたい。ちょっと長文になりました。そのつもりで、どうかお付き合いください。さて、このテーマはもちろん、特に目新しいものではない。カール・マルクスという巨人を筆頭に、これまでに論じ尽くされてきたテーマです。ただ、ここでは学問的なことは置いといて、まるちょう独自の観点から書いてみます。「労働」という、身近でありながら、とても深遠な行為について。自分なりの切り口を見つけられたら、幸いなるかな。

まるちょうは考える。極めてクリアカットに捉えると、労働には以下のみっつの意味がある。順に述べていきます。

(1)カネを稼ぐこと

(2)社会に貢献すること

(3)自己を成長させること



ひとつめは、言うまでもないこと。でも、とても重要な意味がある。経済的な自立のためには欠かせないから。自分の儲けたカネで、適正な消費を行う、この満足感。労働を起点として、自分の生活が回り始める。この充足感。これにより依存の構造を脱して、自立の段階へ入る。自尊心の健全なる育成。アイデンティティの確立。・・まぁ、カネを稼ぐことに異論のある人はいないだろう。むしろ「カネ以外の意味を探ること」が、今回のテーマなんだと思う。

ふたつめは、社会に貢献すること。これに関連して、興味深いBlogを発見した。「人間はどうして労働するのか/内田樹の研究室」というBlog。内容はかなり長文で難解なのだが、キモは「働くことの本質は『贈与すること』である」ということ。例えば、ジャイアンの名言「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」を思い出して欲しい。自我の発達していない子供は、みなこう思う。少なくとも「贈与」に関しては、全く無関心だ。でも、そんな子供であっても「仲間のうちで役に立てる、必要とされる」ことには、少なからず誇りに思えたりするのね。こうした人間関係の中で、次第に「人のために、仲間のために尽力する」という思考を学んでいく。「与えること」を学ぶ子供は、それだけで一歩大人に近づいたと言えるだろう。

その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働しているのである。

社会の一員として機能しているという事実は、労働する人の自尊心を高め「自分は一人ではない」という認識をもたらす。まるちょうは、1998年に病気で半年間休職したことがある。そのとき私の心を一番に占めていたものは「孤独感」だ。あの時は自由だけど辛かった。

みっつめは、自己を成長させること。ここで漫画家のジョージ秋山に登場していただこう。「浮浪雲選集(愛情編)」のあとがきで「仕事と遊び」について、とてもいいことを言っておられる。一部を引用してみる。

(前略)毎日毎日馬車馬のごとく働く。働いて働いて毎日毎日同じバスに乗りだ。もういやだ、マンネリだ・・あなたはそう思う。ストレスが溜まってしまう、平々凡々でと。でも、それは違う、間違いだ。仕事をなくしたら、もっと平々凡々だ。それこそ平々凡々だよ。それは生きてはいられないほどだ。(中略)仕事に感謝しなければいけない。仕事は先生だ。仕事で出会った人々、仕事で出会った思考、仕事で出会った屈辱、みんな先生だ。・・ん? 仕事以外に先生がいる? 遊びは駄目だ。(中略)沢山遊んだほうがいい。だが遊びは先生じゃあない。仕事は先生だが、遊びは先生じゃない、友達だ。仕事は先生、遊びは友達・・そう心にとめておくといいかも知れない。

まるちょうは、この一節が好きでねぇ。先生とはよく言ったものだ。全くその通り。仕事で出会った「人々、思考、屈辱」以外に思いつくもの・・技術、勇気、達成感、失敗体験等々。まるちょうは特に「仕事を通じて、自分を知ることができる」という効用を強調したい。これはやはり実際に働いて「仕事の厳しさ」に揉まれて、ようやく見つけることができる。「石の上にも三年」とはよく言ったもので、やはり同じ仕事をある程度、継続することが望ましい。そうすれば「厳しい先生たる仕事」が、我々に何かを教えてくれるから。必ず何かが見えてくる。

要するに「自己を成長させる」という意味においては、労働は一番だと思うんですよ。具体例を挙げると、例の日野原重明先生。100歳になってもちゃんと仕事を続けてらっしゃる。日野原先生の中には、人並みはずれた「向上心」が宿っていると思う。もちろん、他の要素・・「謙虚さ、率直さ」も必要だろう。まるちょうも、100歳まで生きれるとは思わないけど、老年になっても何らかの仕事に関わっていたい。「仕事という先生に教えてもらう」という謙虚な気持ちでいれば、何歳になっても成長できる。そうした人は、いつまでも若々しいだろう。「俺はもう、お役御免」と自ら線を引いて「年金生活で悠々自適」なんてのは、老化を加速するだけの生き方だと思う。

総括。昨今の風潮ではカネばかりが強調されて、(2)(3)のような労働の隠れた意味を深く考えることが少ないと思う。例えば「あなたの適正収入はこれ!」みたいな広告とか。簡単に言えば、現代人は少なからず「ジャイアン化」している。「与えること」もイヤ「学ぶこと」もイヤ、お金だけとりあえずちょうだい、みたいな。カネは量的で可視的である。それに対して(2)(3)は、質的で不可視的である。カネは比較できる価値だけど、(2)(3)は極めて個別的な価値であり、比較できないもの。ジャイアン化した現代人は、目先のものに捕われる。そして、本当に大事な(2)(3)を見落としてしまう。その先に待ち構えるのは、ずばり「不幸な人生」だ。「職業に貴賤なし」という言葉がある。この意味を深く考えることが、ジャイアン化した大人たちには必要だと思うのですが、いかがでしょうか?

以上「我々は、なぜ働くのか?」というお題で、二回に分けて語りました。