夏頃にtwitterから流れてきた、ひとつの文章に「心がざわざわする感じ」を抱いた。「ニートが揺るがす『勤労』の幻想」というBlog。読んだ後、ひどい違和感を感じ、もう一度読んで、その感情の核心が「嫌悪感」であることに気づいた。8月12日にアップされたBlogで、当時全世界に衝撃が走った「ロンドン暴動」を題材にしている。だから、相当に「賞味期限の切れた」感があるんだけど、もともと社会派でないまるちょうなのです。タイムリーに記事を書くのが苦手。「今頃何書いてんの?」と言わずに、ちょっとお付き合いください。
さて、上記のBlogの一番言いたいことは、
#1 働きたくない奴は、働かなくてもいいのか?
#2 労働の意味って何だろう?
今回は#1について。上記のBlogの一節を引用する。
もちろん「働かざるもの食うべからず」という考え方は大昔からある。なぜなら大昔は「ごくつぶし」を養えるほど社会が豊かではなかったからだ。逆にいえば「働かずに生きている人」の存在は、社会の成熟を意味している。例えばアリの巣では、三割ぐらいの働きアリは仕事をしていない。もしも働かない個体の存在を許さないのならば、私たちの社会はアリ以下だ。
ぼんやり読むと、そんなもんか・・くらいで終わってしまう。でも隙のない頭で、その論理をつぶさに調査すると、この文章が単なる「詭弁」であることに気づく。確かに「働きたくても働けない」社会的弱者の人々は、それこそ「成熟した社会」による擁護を受けるべきだろう。でも、問題になっているのは「働けるのに働こうとしない」人々である。根本的におかしいのは「いわゆるニートの人々は、働いていない状況そのものが不幸である」という認識が欠けていること。上記のBlogは「働いていない状況は、別にいいじゃん」という姿勢を、むりやり肯定しようとしている。ニートにおける「根本的な病理」から、全く目を背けている。
「自分は働いていない」という虚無感を考えて欲しい。人間にとって「働きたい」という欲求は、根源的なものだと思うのね。もっと噛み砕いて言えば「人の役に立ちたい、必要とされたい」という欲求。それが満たされない空虚さ。おそらく、その空虚さを見て見ない振りをすればするほど、その人はどんどん「社会的病者」になっていく。親からの、あるいは国からの経済的援助で生活するという「依存の構造」にはまり込んでいく。人間は経済的に、あるいは人格的に自立して生きて、初めて本来の個性が輝き始めると思う。働けるのに働かない人は、言い換えれば「依存の構造の中で、向上心を持たずに、人生を生きようとしない人」と言うこともできる。その状態は、大げさに言えば「人間の尊厳を蝕ばむ」くらい深刻な事態である。間違いなく、ある種の「地獄」だと思う。単なる依存からは、健全なものは何一つ発生しない。
結論。人間はすべからく働くべきである。そのように成り立つ存在なのである。生活保護の増加という社会現象があるけど、不幸なことだと思う。国の財政にとって? いやむしろ、生保の受給者自身の心の問題として。依存がはびこる限り、人は幸せにはなれない。「依存」は、言い換えれば「人間の根源的な弱さ」である。でもそれは、別の言葉では「人間らしさ」とも言える。だから、まるちょうはそうした人を軽蔑はしない。でも、とても残念に思う。そうした弱さを克服しない限り、幸せは訪れないから。
最後に追加。全ての人生は、依存から始まる。しかしその依存は、あくまでも「自立への準備段階」であるべきだ。依存→自立への移行がうまく行かない時に、様々の「病気」が発生する。間違っても「いい歳をして、未だに依存の中で漂っている状態」で、胸を張るべきではない。件のBlog中のニートくんは、誇りをさえ持っているかのようだが、それはとんでもない錯覚である。彼の自尊心は、風に吹かれる紙切れのように危ういと思う。
次回は、もっと本質的に#2「労働の意味って何だろう?」というお題で書いてみます。