さる10月2日がtwitter一周年だった。現在、約7000ツイート、フォロー125人、フォロワー184人。twitterというメディアは、自分にとってどういう位置づけをしたらいいのだろう? 一年経過した時点での「所感」を、簡単に記しておきたい。
まず最初に思うのは、twitterは自分に無くてはならないツールだということ。まるちょうという人は、とても友達が少ないです。組織にも属していないし、リアルで確かな付き合いといえば、家族(お蝶夫人♪とダイゴ)だけ。twitterというメディアは、その「決定的な繋がりの不足」を、ある程度補ってくれる。緩いけど、ふとした時に繋がりを感じられるというのは、とても嬉しい。
まるちょうはいくぶん、対人恐怖症を持っています。人と面と向かうと、緊張するタイプ。自分ひとり対大勢になると余計に。普段外来業務してるけど、これは仕事だから出来る。あるいは「一対一」の関係なので、楽です。これが病棟業務になると「大勢の人間に囲まれて」仕事することになる。だから病棟業務はとても疲れるし苦手です。
だから何が言いたいかというと、文字ベースのコミュニケーションが得意ということ。相手の顔が見えないのがいい。自分を文字で表現するということは「自分の書いたものを、いったん吟味できる」という利点がある。これは「話し合い」という形態では、あり得ない。文字ベースなら、ひと呼吸考える余裕がある。簡単に言うと、まるちょうという人は頭の回転が遅いんです。生まれつきの文筆家なんだな。間違っても政治家やTVタレントにはなれないタイプ。
では、twitterで一体自分はどのように楽しんでいるのか? 一番思うのは、ずばり「人間観察」です。短いつぶやきの中から、その人の「人格」を探ろうとする。まるちょうは「人間学」が、すごく興味あるんです。対人恐怖なのにね(笑)。とりわけ「人間の多面性」を見つけた時は、ちょっと感動する。豪腕のようで、どこか脆弱とか、聖なるようで、どこか凡俗だったり、知的なようで、どこか下品だったり。そうした矛盾を見つけた時、その人の「心の深部」を覗いたようで嬉しくなる。そうした矛盾を孕んでいる人こそ、魅力的だと思う。どこか危ういけど、目が離せないというか。自分の多面性を、あっけらかんと晒せる人に好感を持ちます。
人間関係の勉強という意味もある。ちょっと気に入っている人から、知らない間にリムーブされたり、あるいはブロックまでされちゃう。私だっていろいろ問題を抱えた人間だから仕方ないのだけど、そうした時は深く反省する。凹む。でも、そうした自己省察が勉強なんです。リアルで少ない人間との付き合いだけでは、到底体験できない勉強だと思う。twitterでは、自分が付き合うには無限に近いほどの人間が日夜つぶやいている。したがってtwitterに参加するということは、いろんな価値観ーー思考、人生観、嗜好、政治性、エロ度、センス、夫婦仲、正直さ、紳士気取りーー数えだすときりがないけど、そうした「人格のるつぼ」の中に入ることを意味するのね。まるちょうは、これこそtwitterの醍醐味だと思うんだけど。
まるちょうの主戦場は、あくまでもBlogです。ちゃんとした意見や感想を述べるためには、twitterというメディアはあまりに狭小である。しかし、Blogはコメントが来ない限り、誰が読んでいるのか分からない。アクセスカウントはもちろんできるけど、その内容はやはり分からない。まるで「闇の中でめくらめっぽうに銃を撃っている」ようなものだ。捉えられるのは、あくまでも「アクセスの量」であり、その個別性はない。まるちょうは、基本「誰がどのように読んで解釈しても結構」というスタンスで文章を書いている。極論すれば、私は「自分が書きたいから書いている」のだから。「読みたい奴は読め」ってか(笑)。
それに対して、twitterはちゃんと個別性がある。そこがよい。「緩いけど、個別性のある繋がり」を感じ取ることができる。これは、Blogにはない楽しみ。結局、Blogとtwitterは相補的な関係なのね。まるちょうには、どちらも必要なんです。
当面の目標は、twitterのフォロワー数を上げること。なんだかんだ言っても、twitterにおいて「力」となり得るのは、フォロワー数である。とりあえず、1000台を目標に頑張ってみようと思う。地味な人間なので、なかなか増えないと思うけど、地道に続けることにより、10年後くらいには四桁になれるんじゃないか? そんな夢を持ちつつ「仮想のお付き合い」を楽しみたいと思う。ちなみに、FBは今のところ手を出す予定はありません。本質的に時代おくれなので。巷で「今頃FB?」とか顔をしかめられるころに、ようやく始めるかと(笑)。
以上、twitter一周年を記念して文章を書いてみました。