医者は病気だけを診ればいいのか?

お題を決めて語るコーナー! 今回は「医者は病気だけを診ればいいのか?」というお題で、ひとつ語ってみたいと思います。まるちょうは「ほぼ日手帳」のユーザーである。この手帳のユニークな特長は「毎日必ずなにかしら言葉がついてくる」ということ。もちろん毎日欠かさず目を通すわけでもない。忙しい時期は、当然スルー。でも偶然、心に響く言葉が目に入ると、ちょっと立ち止まって考えてしまう。手帳って、本来は「管理、制御」を旨とするツールである。そこにランダムな言葉を毎日添えるという作業は「一見無意味な付加価値」である。でも、もしこの微妙なスパイスが何らかのケミストリーを生み出すとしたら、素敵なことだよね。糸井さんの狙いも、そこにあると思うんだけど。

さて、前書きが長くなった。9月25日の言葉です。糸井重里と吉本隆明との対談の中での言葉。

病を研究することじゃなくて、生きることを研究するのが、お医者さんなんですよね。

この言葉をみて、心の中でちょっとした反乱が起こった。肯定する自分と否定する自分。たぶんどんな医師でも、この言葉をみて何らかの葛藤は起こると思う。苛酷な現場で働く医師にとっては「そんなん理想論に過ぎない」となるだろう。ただ、そうして一蹴してしまうと、言葉からは何も生まれない。何も動かない。ここはいったん、考えてみるとしよう。


研修医を終えて、舞鶴で新米の勤務医として働いていた頃。まだまだ未熟だった私には、T先生という指導医がついていた。その先生の持論が「医師は患者の『病気そのもの』だけを診ればよい」というものだった。医師としてのアイデンティティがまだ薄かった私は「まぁ、そんなものかな?」とぼんやり感じていた。あれから15年ほど経過した今、あの言葉が「医師としてあるまじき言葉」であることを、確信することができる。

例えば、狭心症の患者がいるとする。上記のT先生の論理でいくと「冠状動脈の狭窄部位にステント留置して、その後投薬管理すれば終了」ということになる。まさに機械的に。確かに、従来のいわゆる「西洋医学」は、こうした唯物論がベースにあると思う。全てを客観視、定量化し、クリアカットに医療を進めていく。とても分かりやすいし、学生時代はこういう「分かりやすさ」に憧れる部分もあった。

しかし、である。上記の狭心症の患者さんは、それで本当に治癒したのだろうか? 問題は解決したのか? まるちょうは疑問を投げかけたいのだ。今なら確信を持って言える「根本的な解決はしていない」と。患者さんの「自分の病に対する意識変革」が無ければ、早晩狭心症は再発する。堂々巡りなのだ。ここに「病だけを診ればよい」というパラダイムの限界がある。

要するに「その患者さんの人間像を観察して把握する」という視点が抜けてるのね。その患者さんの嗜好、職業の性質、家族の構成、人間関係、性向、等々。挙げるときりがないし、こんなん、医療面接の限られた時間ですべてを把握できるはずもない。でも、まるちょう的にポイントを絞ると「その人の弱点」を見つけることだと思う。どんな人間にも弱点はある。弱点の周りに「依存」が生じコンプレックスが形成され、病が徐々にできあがる。

本当に優れた医師は、その人の人間像を把握し、病気の根本になっている「悪しきコンプレックス」へ介入する。これ、ホントに難しい。でも、患者さんに本当の「意識変革」が起きて、生まれ変わることができたなら、その時こそ「問題は解決した」と言えるのだ。医師としての本懐である。

9月29日放送の「ドクターG」に出演された名古屋大学病院総合診療科の鈴木富雄先生は、こうおっしゃっていた。

患者さんの人生、見てきた風景、人間関係、それらを見てください。そうすれば患者さんのことがわかる。病気を診るのではなく患者を見る、我々の方から変わる。それが医師です。

この高い志を一笑に付す医師は、結局それだけの力量しか無いんだと思う。人間はファジイな存在であり、本質的にクリアカットには行かないものだ。そのどこまでも不可解な対象に興味を忘れないことが、医師として大事な資質だと思う。

総括。冒頭のほぼ日手帳の言葉は、本質において正しい。患者さんの多くは「病だけを診て欲しい」とは思っていない。あたかも「病んだ物体」のように扱われるのは、恐怖でさえあるはずだ。医療者と患者の関わりの中で「病を治す」以外の、なんらかの副産物があっていいんじゃないか。「副産物」は、ちょっとした言葉だったり、ユーモアだったり、気遣いだったり。「病を治す」というベクトルと関係のない行為。患者さんを「生かそう」という気持ちから発生する「一見無意味な付加価値」。まるちょうは、いいと思うんだけど。最後に、映画にもなった有名な医師、パッチ・アダムスの言葉を記しておく。

病気がなくても、幸せでなければ健康でない。病気があっても、幸せであれば健康だといえる。