日輪の遺産/佐々部清監督(3)

前回に引き続き「日輪の遺産/佐々部清監督」より。最後は「#2 日本人としての矜持」というお題で書いてみたい。

338137_001矜持・・矜持って、何だろう? 辞書を紐解いてみると「みずからたのみとするものがあって、ほこること。ほこり。自負。プライド」とある。そうか、「みずからたのみとするもの」があって、初めて誇れるわけだ。言い換えると「心の拠り所」あるいは「アイデンティティ」でもいいかもしれない。戦後の日本人のアイデンティティの有り様。国体(天皇を中心とした秩序)がなくなり、物資の欠乏とともに、極めて苦しい、精神的な空虚さ、不安定さを経験した。そうした混迷から、日本人はどうして立ち上がってきたのか。どのようにして「矜持」を持ち得たのか。

本作で語られる戦後。無名だが偉大な三人の日本人について。それは、真柴少佐と小泉中尉、そして女学生の久枝の生き様である。ここでは主人公の真柴(堺雅人)について、触れておきたい。彼のキャラは、とても曖昧で「断としたところ」がない。終戦間際の軍人の仲間からは「敗北主義者」という烙印を押されている。しかし、これは彼の「心の拠り所」が薄かったからだ。「皇軍は不滅なり」という軍人の虚勢。真柴は「負け戦」であることを自覚し、だからこそ迷い、苦しんでいた。女学生のマツさんが純粋な心でこう訴えるシーンは、とても重要である。

米国の女学生も今は学校に行っていないのでしょうか。(日本軍が米国本土に攻め込んだら)米国の女学生も私たちのような辛い作業をしなければならなくなって、大勢の人が死んで・・戦争をやめるのは、決して恥ずかしいことではないと思います。

真柴は返す言葉を見つけられない。凡庸な軍人ならば「何を生意気なことを言っておる!」と叱責するところだ。このシーンにこそ、彼の本質が現れている。つまり「虚偽の少なさ」だ。仰々しい権威や、旧態然とした力による制圧ではなく、真実に対して謙虚に振る舞う。真柴はマツさんの言うことが「まさに正論」と内心感じていたはずだ。立場上、そうも振る舞えなかったわけだけど。

nitirin4しかし、例の悲劇が彼の「戦後を生きていく決意」を、逆に固めさせたと思う。無力ないち国民となり、彼は軍人時代に上司だった梅津元参謀総長の病床に赴く。そこで梅津は「長生きせい。それがおまえの任務だ」と言って、紙片を真柴に渡す。そこには「幽窓無暦日」とあった。これは「監獄の中でに月日は流れない」との意味だが、彼は「使命という監獄の孤独にただ耐えよ」と解釈した。真柴は賢い男だ。決してスターにはなれないキャラだけど、地味で淡々と、しかし心の底に強い決意を持って生きる男だ。まるちょうは、そういう真柴が好きです。とても他人とは思えない。原作の真柴は、もっと線の太い感じらしいけど、私は堺雅人演じる、この等身大の真柴が大好きです。

nitirin2さて、前述の三人の生き様。三人の脳裏には、常に例の悲劇があったはず。三人三様の生き様ではあるけど、それぞれに厳しくて重くて辛い戦後だった。その中を、衝き動かされるように生きた三人。彼らの「矜持」の核心をなすものは「あの19人の女学生と教師の死を無駄にしてはいけない」という気持ちだっただろう。「みずからたのみとするもの」は、仰々しい思想や原理でなくてよい。もっと個人的な想い、残像、苦しみ、怒り・・個人的なものであっていいと思う。実際そうして日本は10数年で復興した。愛する人の死、途切れた絆、破壊された家、失われた故郷。そうした喪失感を乗り越えて、むしろバネとして復興したのだ。「また、もう一度!」と心の中で叫びながら。もちろん、3.11の悲劇と重なる部分も多いかと思う。まさに現在「日本人の矜持」が発揮されるべき時だと思う。

まるちょうは、映画館を出たとき、とても爽快な気分だった。そう、本作は単に悲劇を描いているのではない。原作者の浅田次郎も、本作のテーマはあくまでも「日本の恢復」であるとしている。佐々部監督は、そうした意図でラストに79歳になった久枝と、19人の級友と野口先生との再会のシーンをもうけている。nitirin319人の級友たちはみな笑顔で、久枝は泣き出す。すると野口先生が「級長のくせに泣く奴があるか。久枝、おまえは仲間はずれなんかじゃないぞ」と言う。久枝は66年間、「自分は生きていていいのだろうか?」という自問を、何千回と繰り返してきたはず。このシーンは、その重い呪縛を解き放つ意味がある。孫の涼子のお腹に新しい生命が宿っている。そうして「昇る太陽」のエンドロール。視聴者の「映画館を出たときの気分」に、非常に配慮された演出だと思う。あの「把握できない感情の複合体」は、こうして出来上がったのだ。まさに、佐々部マジックと言わずしてなんだろう。

最後に蛇足ですが、佐々部清監督が監督デビューされたのが、44歳だそうです。これ、ちょうど私の年齢なんだな。この事実は、とても重みがある。佐々部監督は、いわゆる「陰徳」をこつこつ積める人なんじゃないかと思っている。監督の映画に対する真摯な姿勢を、ぜひ学びたいと思います。以上、映画「日輪の遺産」について、三回にわたりBlog書きました。