タクシードライバー/マーティン・スコセッシ監督(1)

「タクシードライバー」(マーティン・スコセッシ監督)を観た。これは学生時代に観て、何か得体の知れない衝撃を受けた映画。当時はその「得体の知れない何か」について、十分に理解できていなかった。とにかく、観た後の「空虚感、孤独感、心のヒリヒリする感じ」が半端でなく、若き日のまるちょうを苛んだ。まるで短刀で心臓をぐさりとやられたかのようだった。今回再び観て、その「何か」について、ある程度の分析ができたので文章にしておく。次の二点を軸に書いてみる。

#1 地獄の都市、NYC
#2 閉塞を打ち破ること


今回は#1について。本作の舞台は世界一の大都市ニューヨーク(以下、NYC)。私は2002年にNYCを訪れているのだが、それほど違和感とか恐怖感とかはなかった。ところが、私の兄が半端でない怯え方をするのだ。「お前、大丈夫か?」「殺されるぞ!」など、強迫的な発言をする。他にも状況証拠はあるんだけど、たぶん、兄はこの映画を観ていたと思うのね。そうして、NYCを異様に恐怖するようになったんだと思う。



スコセッシ監督はNYCを、まさに「地獄の都市」としてデフォルメしている。そのデフォルメの仕方が、これまた完璧なのだ。一寸の隙もない。観客をまさに地獄に追いつめていく。映像はもちろん、音楽、個々の科白、そして「間」。全てが渾然一体となって、いびつな都市空間を描き出していく。猥雑、疲労、暗黒、堕落、暴力。それらがカオスを作り出し、狂気を導きだす。この息苦しさはなんだ? 兄が恐怖するのも無理はない。

この息苦しさが、昔どこかで感じたものと同じだった。どこか? それは「罪と罰(ドストエフスキー作)」におけるペテルブルグなのです。一昔前のロシアの都市と、その息苦しさにおいて、本作で描かれるNYCは同一である。したがって、ふたつの作品の主人公は、同様の精神状態に陥ることとなる。それはずばり「閉塞感」。「罪と罰」においては、主人公ラスコーリニコフは、地獄の都市ペテルブルグの「閉塞」を打ち破ろうとして、老婆を殺害する。ドストエフスキーの悪魔的な筆致により、彼はそれ以外の選択肢を失う。本作の主人公トラビスは、地獄の都市NYCの「閉塞」を打ち破ろうとして、大統領候補の暗殺を企図するが失敗に終り、やけくそでギャング一味のアジトに単身乗り込み、皆殺しにする。

大都会の罪ってなんだろう? 誰もが憧れ、集まり、そうして成り上がる者もいれば、堕落して敗れ去る者もいる。何もかもが揃えられていて豊かなようで、いつまで経っても渇きは癒されない。いやむしろ、更に心は渇いていく。大都会の作り出す「幻影」は、若者を虜にし、そうして無慈悲に選別していく。思うんだけど、結局のところ「様々な悪」を取り込むのが大都会の罪じゃないだろうか? 大都会という不夜城は「様々な悪」を吞み込み、増殖し、支配する。でも「悪」というやつは、得体の知れぬ甘美さを秘めているから始末が悪い。その蜜に群がる愚かな大衆という構図。さて、大都会という「巨人」を想ったとき、次の名曲が脳裏に浮かぶ。

とんぼ/長渕剛作


コツコツとアスファルトに刻む 足音を踏みしめるたびに

俺は俺であり続けたいそう願った

裏腹な心たちが見えて やりきれない夜を数え

逃れられない闇の中で 今日も眠ったふりをする

死にたいくらいに憧れた花の都「大東京」

薄っぺらのボストンバッグ北へ北へ向かった

ざらついた苦い砂をかむと ねじ伏せられた正直さが

今頃になってやけに骨身にしみる

長渕さんは、このうたで「大都会」という得体の知れないものの「空気感」を、実に精確に表現していて痛快である。このうたで、どれだけ多くの人が救われ、共感し、溜飲を下げただろうか。愚かな人は大都会という「巨人」に吞み込まれ、次第に骸と化す。その一方で、賢い人は断念を知っている。大都会は魅惑的な「幻影」を呈示するが、それはあくまでも「幻影」に過ぎない。そうした幻影を「断念する」ことから、本来的な生は始まるのだ。

次回は#2の「閉塞を打ち破ること」と題して書く予定です。