国境の南、太陽の西/村上春樹作(3)

引き続き「国境の南、太陽の西」から。ラストは#3「で、一家の長としてどうなのよ?」というお題でひとつ書いてみたい。ちょっと長文になりました。あしからず。

本作で重要なモチーフの一つに「砂漠は生きている」というディズニーの映画がある。基本的に子供向けの作品なんだけど、本作では特別な意味合いで用いてある。ハジメ曰く「みんながそこで生きているんだ。でも本当に生きているのは砂漠なんだ」と。また「みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ」という象徴的な言葉。この言葉の解釈として、まるちょうは「結局人間は、運命には逆らえない。神(あるいは悪魔)の操りの前に、なすすべなく、ただ生きている」という観点を見出す。それは一面的には事実かもしれない。でもそれが100%そうならば、やはり生きていて虚しい気もする。

#3では、ハジメの妻有紀子の言葉がとても重要になる。したがって引用が多くなりますが、ご容赦ください。まずはハジメが有紀子に不倫を認める場面から。

「あなたには私の他に好きな女の人がいるんでしょう?」と有紀子は僕の顔をじっと見ながら言った。僕は頷いた。(中略)「そしてあなたはその人のことが好きなのね。ただの遊びじゃなくて」「そうだよ」と僕は言った。「遊びというようなものじゃない。でもそれは君が考えているようなのとは少し違うんだ」「私が何を考えているかあなたにわかるの?」と彼女は言った。「私の考えていることが本当にあなたにわかっていると思う?」(中略)「私が何を考えているか、あなたには、おそらく、わからない、と思う」と有紀子は言った。彼女は子供に何かを説明するときのようにゆっくりと言葉をひとつひとつ丁寧に発音していた。「あなたには、きっとわからない」

 

有紀子は夫の不倫について「腹が立つというより、ただ辛い。想像をはるかに越えて辛いわね」と漏らす。でも彼女はキレずに我慢強く「理性的に話し合う態度」を崩さない。もちろん毅然とした態度は示すわけだけど。

「もしあなたが私と別れたいのなら、べつに別れてもいいのよ。何も言わずに別れるわ。(中略)私が知りたいのは、あなたが私と別れたいかどうかっていうことだけよ。家だってお金だって何もいらない。子供たちが欲しいのならあげる。本当よ、真剣に言ってるのよ、これは。だから別れたいのなら、ただ別れたいって言って。私が知りたいのはそれだけなの。それ以外のことは何も聞きたくなんかない。イエスかノオかどちらか」

これ、結局ハジメは「ノオ」という回答をするのだが、もし「イエス」と回答したら、その時はどうなっていたか? おそらく有紀子は自殺していただろう。有紀子のキャラは自分をすり減らすタイプだ。「家も金も子供もいらない」というのは、あまりにも自傷的だと思う。やる時には、すっかりと自分でケリを着けてしまうタイプなのだ。逆に言うと、それだけ純粋にハジメのことを愛している、ということになるのかもしれない。

上記から数週間後の有紀子の科白。

「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ。(中略)本当のことなの。私は何度も死のうと思った。それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと思う。(中略)私は子供のことさえ考えもしなかった。私が死んで、そのあと子供たちがどうなるかさえほとんど考えなかったのよ。私はそれくらい孤独で寂しかった。あなたにはそれはわからないでしょう? そのことについて、あなたは本当に真剣には考えなかったでしょう。私が何を感じて、何を思って、何をしようとしていたかということについて」

この言葉はまるちょうにとっても、心が痛い。妻が何を考えているか、尋ねようとしないということ。自閉的で相手のことが見えなくなる。その狭い世界で自分は苦しみ、妻の「想い」も分かろうとしない。考えようともしない。まるちょうも、こうした傾向がある。おそらく村上さんも同じなんじゃないかな? こういう心的状況から、夫婦の断絶は始まる。誠に恐ろしいことだ。有紀子の科白を続けよう。

「でもとにかく私が死ななかったのは、私がとにかくこうして生きていられたのは、あなたがいつかもし私のところに戻ってきたら、自分がそれを結局は受け入れるだろうと思っていたからなのよ。だから私は死ななかったの。それは資格とか、正しいとか正しくないとかいう問題じゃないの。あなたはろくでもない人間かもしれない。無価値な人間かもしれない。あなたは私をまた傷つけるかもしれない。でもそんな問題じゃないのよ。あなたには何もきっとわかってないのよ。(中略)資格というのは、あなたがこれから作っていくものよ。あるいは私たちが」

このようにして、夫婦関係は修復の方向へ導かれる。おそらく村上さんは、冒頭の「砂漠は生きている」に象徴される一種の哲学に対して、反論を唱えたかったに違いない。人間は運命の言いなりではない。人生を生きて、そこで何かを生み出し、足らないところを埋めて、大地に太い根っこを築いていくべきものだ。小説を書くからには「人間の生き死にの後に、砂漠だけが残る」という悪魔的なドグマを払拭する必要があったのだ。

ある意味、この有紀子のような妻というのは、現実的ではないだろう。おそらくハジメみたいな不倫をしでかした夫は、ほぼ離婚になっちゃうと思う。遊びだって許さない妻はいくらでもいる。このケースはガチで本気だからね。始末に負えない。でも、上記のように村上さんとしては、どうしても「夫婦がズタズタになりながらも、やり直そうと努力する」もっと言えば「苛酷な運命に対して、なんとか乗り越えようとする」ハジメと有紀子の姿を描く必要があったのだと思う。

「で、一家の長としてどうなのよ?」というお題からちょっとずれちゃったかな?(笑) まるちょう自身は「妻がどう思っているか、何を感じているか、何をしようとしているか」を夫として考えることは、わりと苦手かもしれない。どうしても自閉的、視野狭窄になりやすい傾向がある。なかなか難しいですが、可能な限り妻の気持ちを慮ること。不得意ならば、謙虚に学ぶこと。何もなしで砂漠だけが残るというのは、ぞっとしない。ふつつかな夫ですが、すみません、よろしくお願いします(お蝶夫人♪へ)。

以上、三回に渡り「国境の南、太陽の西」について書きました。