国境の南、太陽の西/村上春樹作(2)

前回に引き続き「国境の南、太陽の西」から。今回は#2「国境の南には何があるのか?」というお題で書いてみる。「国境の南(South Of The Border)」は英語の歌で、とても親密な雰囲気のナンバーである。12歳のハジメはこの曲を聴く度に「国境の南には何があるんだろう?」と不思議に思っていた。そうして、同い年の早熟な島本さんを見ては「甘い疼き」を体の奥に感じていた。実際の歌詞では、単にメキシコがある。それだけのことだ。二人とも大人になってからそれを知って、どれほどがっかりしたことだろう。

「国境の南」・・ここで形而上的に表される「境界」とは、もちろん「性的な意味の一線」である。12歳の頃の二人は、この境界を越えることができたなら、そこには「南」に象徴されるユートピアがあると思っていたはず。二人は淡いが確かな愛情で結ばれていて、そこに肉体的な交わりがもし生じれば、そのユートピアへの扉を開くことができたのだ。しかし、とりわけ12歳のハジメはまだ性的に未熟で、そこまでの行動には及ばなかった。一方島本さんは、はっきりと抱かれたいと思っていたのに。そうした運命のすれ違いが、その後二人を引き離していく。「国境の南」という歌の親密さを脳裏に残したままで・・

25年後に再会した二人にとって「国境の南」に象徴されるものは、12歳の頃とは変わっていた。ハジメは二児のパパであり、仕事も順調で幸せに暮らしている。一方、島本さんは小児麻痺で悪かった左脚は、手術によりかなりよくなっていた。人を寄せ付けないほど美しいが、孤独な人生を送っていた。ハジメが彼女の歩んできた人生について訊こうとしても、言いたがらない。謎に包まれているのだ。

そんな二人にとって「国境の南」は、すでに単純な「ユートピアの扉を開く」というようなものではなくなっていた。現実はそう甘くない。37歳という年齢は、人生のしがらみ、厳しさ、重さがのしかかってくる年代である。もう、あの頃の無垢な二人ではないのだ。まるちょうの思うに、特に島本さんは「国境の南」という穏やかなユートピアという結末は、すでに期待していなかっただろう。そこで出てくるのが「太陽の西」というイメージ。「ヒステリア・シベリアナ」というシベリア農夫がかかる「死に至る病」について、島本さんが語る。

東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ。

島本さんに関して言うと、すでに太陽の西へと歩き始めていた。「何かがぷつんと切れる」という表現について、少し考えてほしい。島本さんは、これまでの人生の中でもがいていた。でも、本当に欲しいものをつかみ取ることができなかった。どこへ行くこともできず、彼女の中で何かが死んだ。「本当に欲しいもの」を具体的に抽出すると、ハジメとの初恋の成就に行き着くのだろう。でも彼女はすでに、戻れない状況にいた。なぜなら、すでに「太陽の西」へ歩き始めていたから。だから「太陽の西」は「この世界の向こう側」とか「あの世」、端的に言えば「死の世界」という事になるかもしれない。作中の表現を借りると「地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間で、そこにはあらゆる響きを吸いこみ、二度と浮かびあがらせることのない深い沈黙があった、沈黙の他には何もなかった」ということになる。島本さんの瞳の奥に、ハジメが読み取った光景である。

この島本さんのプロトタイプは「ノルウェイの森」における直子ではないだろうか? まるちょうは直観でそう思うんだけど。直子は自殺するが、島本さんは消え失せる。しかし、その喪失感は男性側にとっては同じようなものだろう。ワタナベくんもぼろぼろになるけど、ハジメも、ひどい混乱の中へ陥れられる。ハジメは「太陽の西」へ島本さんと一緒に歩んで行く決心をしていたのだ。ただし、島本さんが「死に至る病」を抱えていた(これはまるちょうの推測だけど)ことは、あまり意識していなかったと思う。今現在の家庭を捨てて島本さんとの新生活を始める、というくらいの気持ちだったのではないか。結局ハジメは甘かったのだ。島本さんとの新生活とは、すなわち「死の世界へ、ただひたすら近づくこと」に他ならなかったのだから。

ハジメの12歳のときの原風景。その甘い疼き。太宰が「飲み残した一杯のアブサン」という表現を残しているが、そうした「手の届かない過去への悩ましい憧憬」が、ハジメを狂わした。しかしハジメにとってそれは、アイデンティティの欠落を埋める、根源的な欲求だったのだ。そこに、同じ男性として、地の底から湧き出るようなやるせなさ、切なさを感じる。本作の一番の味わいどころは、ここじゃないかと思う。12歳のとき「ユートピアへの境界」だったものが、25年後には「死の淵への境界」と変わり果てるという、時間の経過の残酷さ。ほんま切ない。

しかし、上記は全て男性の論理。女性としてはどんな理由があるにせよ、これは重大な裏切りでしかない。本作に関するBlogは二回を予定していましたが、急遽もう一回追加します。#3「で、一家の長としてどうなのよ?」というお題で、書けるだけ書いてみます。