国境の南、太陽の西/村上春樹作(1)

「国境の南、太陽の西」(村上春樹作)を再読した。独身時代に初めて読んだ時は、面白いとは思ったが、自分にとって特別な意味合いは持たなかった。しかし今回読み返してみて思うこと。43歳の一家の長として、本作はひとことで表現すると「恐怖」である。家庭を持つ身として、この作品は、あまりにもリアルで切ない。映画「危険な情事」よりも、ある意味ではるかに怖い。「危険な情事」は、主人公の男性はあくまでも遊びで女に手を出した。そこから女の凄まじいストーカー行為が始まるのだが、関係としてはあくまでも表層的なものである。一方、本作は主人公のハジメと島本さんの不倫は、まさに根源的で、現在の生活を全て否定するものなのだ。ハジメは、最終的に自分の家庭を捨て去ることを決意する。そこに至る男性の論理というのが、村上春樹ならではの綿密な描写で、全く無理がない。「ああ、そういうことってあるかもな」と思わせる周到さである。まるちょうは逆にそこが一番怖い。人生の中に潜むそうした「落とし穴」が、こんなに自然に表現されるという事実に打ちのめされるのだ。次のふたつの軸で語ってみる。

#1 悪魔的な「吸引力」について

#2 国境の南には何があるのか?

今回は#1について。この「吸引力」というのは本作の重要なモチーフである。この言葉を頭に焼き付けるために、次の引用をする。ハジメの青春期のエピソードから。

僕は最初に彼女と顔を合わせたときから、この女と寝たいと思った。もっと正確に言うなら、僕はこの女と寝なくてはいけないと思ったのだ。そしてこの女だって僕と寝たがっていると本能的に感じた。僕は彼女を前にして文字通り体がぶるぶる震えた。そして僕は彼女の前にいるあいだ何度か激しく勃起して、歩くのに困ったくらいだった。それが僕の生まれて最初に経験した吸引力だった。

村上さんは敢えて「性欲」という書き方をしていない。もっと根源的で避け難い「何か」なのだ。このときのハジメの「吸引力」の対象は、大切なガールフレンドの従姉である。論理的にはこの「吸引力」に抗って、ガールフレンドであるイズミへの愛を貫くべきである。しかしハジメは結局、その従姉の女性ととことんセックスしまくる。それこそ精液が尽きるまで。亀頭が腫れあがって痛くなるまで。もちろんこれは「愛」ではない。ハジメは「得体の知れない何か」に巻き込まれたに過ぎない。しかし、これはあくまでも男性側の意見だ。女性にとって、そうした細かい「因果」なんて、どうでもよいのである。要は自分という存在が裏切られたという事実。そうして、イズミはひどく傷つく。「ひどく」という表現では到底足らないほどに。人生の根幹からおかしくしてしまう。そうして、当然ハジメの心も損なわれる。

本作はこの「吸引力」という得体の知れないものに、どれだけリアリズムを持たせることが可能か。そこにひとつの重心があると思う。しかし何度も言うが、村上さんはそれにしかと成功している。いやいや、全く恐ろしい。こんな「悪魔のような力」が存在するなんて、信じたくないけど、村上さんは小説という形で我々に静かに呈示してしまった。

まるちょうの思うに、この力は結局「人生は不条理なものである」という命題を、具象化したものではないか。論理を飛び越え、理性を踏みにじり、人を傷つける。人との結びつきをずたずたにする。正気に対する「狂気」という表現も可能だろう。人間には大なり小なり「偏り」というものが存在し、それにしたがって、その人固有の「鍵穴」のようなものができる。そして、そこにジャストフィットする存在が現れると、まさに「嵐に巻き込まれる」事態となる。もちろんそれは愛でもなければ、性欲だけでもない。まさに「正気を失わせて、理性をかき乱し、論理を飛び越えてしまう」不条理そのものなのだ。熱病みたいなものだ。

本作では「吸引力」を対人的なものに限定しているけど、まるちょうの思うに、それの対象は「物質や思想」であってもいいわけです。いわゆる「はまる」という奴ね。ある物に執着して、離れることができず、そのために他を犠牲にしてしまう。そこに「嵐」が巻き起こる。そして、その人の生活がめちゃめちゃになった頃には、嵐は過ぎ去ってしまう。

では、その悪魔的な「吸引力」に対抗するには? 思念的に言うと「偏りをなくすこと」ということになるが、これはなかなか難しい。なぜなら、人間「偏り」がなくなったら、生きていくベクトルが希薄になるから。「偏り」がない人間なんて、唐変木そのものである。生きてる意味なし。だからこそ、ここに大きな落とし穴ができてしまうのだ。強いて言うなら、落とし穴に堕ちそうになった時、いかに早くその危険性に気づくかだろう。堕ちそうになる寸前に止める手だてがあること。

ちょっと長くなったので、いったんここで切ります。次回は#2「国境の南には何があるのか?」というお題で書いてみたい。本書のテーマはあまりにもリアルで、汗が出てきそうです。