七人の侍/黒澤明監督(2)

引き続き「七人の侍」から。今回は#2の「スパイシーな存在」というお題で書いてみる。スパイシーとはもちろん、三船敏郎演じる菊千代のことである。25歳に初めて観たとき、この「狂気」を帯びた男が三船さんとは、全く分からなかった。1991年頃の三船さんといえば、もちろん芸能界の中でも重鎮であり、タキシードに身を包み、渋い表情で葉巻でもくわえている印象だった。しかし映画が進行するにつれて、この悪鬼のごとくギラギラして、洗練されず、やかましい男が若かりし日の三船さんと分かり、我が目を疑った。ひとことで言えば「なんじゃこら!」と開いた口が塞がらないという風情。本作との「遭遇」は、まさにこの菊千代体験から始まったのである。

寛容で落ち着いた他の侍とは対照的に、この菊千代というキャラは、話の流れをかき乱す存在。異音を奏でる男というか。黒澤監督の創作ノートでは、いみじくも「悪霊」と記されている。つまり組織の中のガンなんだけど、それが善い悪いは別として刺激となり、組織に活を入れる。スパイシーたる所以である。

漫画で言えば「ドカベン」の岩鬼正美、「東京ラブストーリー」の赤名リカなどは、スパイシーと言えるだろう。まるちょうが素晴らしいと思うのは、そうしたひとつ間違えれば「変な奴」であるキャラを、社会の中でのけ者にせず、一人の構成員として描いている点。本作では、菊千代も初めは全くの「変な奴」に過ぎないが、第七番目の侍と認められ、次第にその頭角を現してくる。

ひとつの節目となるシーンは、菊千代が百姓出身であるとカミングアウトするところ。農民が落武者を襲って奪った武器や甲冑などが、わんさと出てくる。菊千代以外の侍は憮然となる。しかし菊千代は、その百姓の狡猾さや隠された暴力性などを熱く弁護する。ここで三船さんは、目をかっと見開いて、怒りを込めて、六人の侍に自分の想いのたけをぶつける。ここまで百姓を追いつめたのは、お前たち侍だろうが!と。ここは紛れもなく名場面であり、心が熱くなるところ。こうして菊千代は、百姓と侍を結びつける重要な存在となった。千秋実演じる平八が「戦に何か高く翻げるものがないと寂しい」と、百姓を表す「た」の字と侍を表す○を六つ、菊千代を表す△をひとつ描いた旗を作る。この旗を見せられて、菊千代は頭をかいてむすっとするのだが、悪い気はしなかっただろう。

組織にとってスパイシーな存在の意義とは? ひとことで言うと「変革をもたらす存在」である。腐敗し形骸化する組織に活を与える。だから、体制側の人間にとっては迷惑千万。でも、あるべき姿としては、そうした「異端」を排除すべきではないのだ。本作の残りの六人の侍たちは誠に寛容で、ある意味無茶苦茶な菊千代を最初から温かい目で見ている。組織には、こうした「男性的な」気質が必要だろうと思う。了見狭く、はみ出した奴を差別するばかりでは、組織は成熟しない。こうした黒澤監督の視点が、何度も言うけど、とても男性的で観てて気持ちよい。


ちょっと横道にそれるけど、Apple社CEOのスティーブ・ジョブズは、その本質において「異端」であると、まるちょうは認識している。いわば「異端」が本道になっちゃったという話ね。その異端性が高じて、1985年にAppleから放り出されたが、1996年に復帰。その後のAppleの快進撃は、みなさんご存知の通り。それに対してMicrosoft社の斜陽はどうだ。過去の遺産にすがりつき、形骸化した体制を変えられない悲しさ。Microsoftに異端は現れるのか? いや、現れても踏み潰されるかもしれないけどね(笑)。

話を戻して、菊千代はいざ戦闘となると、その「狂気」をいかんなく発揮して暴れまくる。戦いの中で、冷静さはもちろん必要だけど、こうした「血に飢えた」感じは更に必要なのかもしれない。長嶋茂雄風に言うと「戦いの緊張感を楽しむ」というスタンスね。これも、まるちょうが苦手とする姿勢である。まぁ、菊千代の場合は「楽しむ」というのを通り越して「相手を斬り殺すのに愉悦を感じる」というタイプなので、手に負えない。でもやはり、実際の戦闘においては頼りになる存在である。

総括。スパイシーな存在は、初めはうさんくさいが、組織に溶け込み始めると、なくてはならぬ存在となりうる。スパイシーな存在は本質的に「異端」であり孤独だが、いったん愛着を覚えると、目が離せなくなる。その愛すべき菊千代が、ラストの雨中の合戦で死ぬ。このシーンの視聴者の慟哭は、全く計り知れない。次回は、その伝説の「雨中の合戦」について書きたいと思います。