七人の侍/黒澤明監督(1)

前回に引き続き「七人の侍」について。みっつの軸を少し改変しています。ご注意ください。今回は#1の「リーダーとしての資質」というお題で書いてみたい。七人の侍の中で、リーダー格はもちろん、志村喬演ずる島田勘兵衛である。当時、志村喬49歳。なんという安定感、渋さ、包容力だろう。思わず、ため息が出てしまう。黒澤明監督は、この役は初めから志村さんと決めていたそうだ。相当な信頼を置いていたと思われる。志村さんの醸し出す存在感。これってどうしたら出てくるんだろう? ギラギラしたのではなく、あくまでも静かな、それでいて周りの空気を微かに変えるような存在。まるちょうは、こうした人に憧れます。困った時に、坊主頭を撫でる仕草がとても可愛らしいけど、それはそれで渋いのだ。

さて、お題の「リーダーとしての資質」について。リーダーにはもちろん、上記のような包容力や寛大さ、人を惹き付ける存在感が要るだろう。しかし、まるちょうにとって一番遠いと思わせるのは、やはり「ここという時に、部下を叱咤して律する」部分だと思う。一番印象的なのは、数人の農夫が侍たちの方針から離反しようとした時、それこそ底知れぬ殺気を以てその農夫たちを追い立て、集団の中に戻らせる場面。もちろんここで勘兵衛は刀を抜いて走る。ここの動きが、なんというか腰が安定していて、すごい存在感である。あるいは、威圧感。こりゃ、農夫は震え上がるよな~、と思ってしまう。25歳のとき映画を観ていて「これは自分にないな~」とつくづく思ったものだ。

もっと深く掘り下げると、組織の中の方針や大義があった場合、それから外れようとするメンバーを、うまくコントロールできる能力。これに尽きると思う。いかに集団を一つのベクトルに乗せることができるかを常に考える人。リーダーは、そうでなくちゃ。キャプテンをしていた時は、そのまさにベクトルが自分の中で描けていなかった。そう、そうなんです。私という人間は「こうしたい、ああしたい」という思考体系が薄い人間なんです。よく言うと「無欲」ということになるが、無欲はリーダーとして好ましいとは言えない属性だ。自我のないリーダーほど頼りないものはない。ところが実際には、無私から自我は生成しにくい。どこか奥底に「私利私欲」があってこそ、リーダーはリーダーたれるのだと今では思える。そうした背景で、いかに権謀術数をふるえるかが、現実的なリーダー像なんだと思う。

しかし作中の勘兵衛は、私利私欲はひとつもない。とてもクリーンなリーダーである。でも、そこがいかにも現実的ではない。いわばユートビアにおけるリーダーなのだ。言い換えると無菌室でしか指揮を執れないリーダーは、くそったれ、ということである。人々はいろんなばい菌を持ってリーダーに近づいてくる。現実的には、リーダーが免疫不全ならば、全く使い物にならないのだ。だから、リーダーは隠れた「私利私欲」があってよい。そうでないと持たないよ。

私利私欲のひとつもない勘兵衛が最後にこぼす、有名な科白。



今度もまた負け戦だったな。
勝ったのはあの百姓達だ。
わし達ではない。

要するに黒澤監督は「敗者」として勘兵衛を位置づけている。そうなんだ、私利私欲の一つもないリーダーは、結局敗者になるしかないんだ。勘兵衛の「人の良さ」が、結局勝利を自分に呼び込めなかった。シニカルな科白だけど、まさにリーダー論の真髄を突いていて、こころが苦しくなる。ここのシーンは、農民が踊りながら陽気に田植えして、ずっと科白がない。一番最後に、上記の重たい科白が勘兵衛の口からこぼれる。いかに黒澤監督が、この科白に重心を置いていたかが解る。ここで象徴される哲学は「無私は結局、敗北主義につながる」ということではなかったか。今回このBlogを書いていて、そんな風に感じました。

次回は#2の「スパイシーな存在」というお題で書きます。