罪と罰(1)/ドストエフスキー作

「罪と罰」について、一回目のBlog。#1の「美しきドゥーニャ」と題して書いてみたい。

私が28歳の夏、ある女性に恋していた。その名はアヴドーチャ・ロマーノヴナ。愛称がドゥーニャ、その人である。作中、ルージン、スヴィドリガイロフ、ラズミーヒンを惹き付けてやまない、正真正銘の麗人である。ラスコーリニコフの妹だけあって気位は高いが、その誇りに値する魂の純潔も持っている。ドスト氏は、このドゥーニャを読者に紹介するのに、文庫本でまるまる1ページを割いている。この入念な人物描写に、ドスト氏の「こだわり」を感じてしまう。長い引用だけど、必要だと思うので載っけておく。

アヴドーチャはきわだって美しい娘だった。背は高く、体つきは目を見張らせるほどすらりと整って、力と自信にあふれていた。この自信は身振りのはしにも現れていたが、かといって、その物腰から優雅さとやさしさを奪うことはけっしてなかった。顔立ちは兄に似ていたが、美人と言っても少しもおかしくなかった。髪は栗色で、兄よりいくぶん明るかった。目は、ほとんど黒と言ってもよいほど深い色で、きらきらと輝き、誇りに満たされていたが、それでいて何かのはずみに、思いがけないほどやさしくなることがあった。顔色は青白かったが、病的な感じはなかった。彼女の顔は生き生きとして、健康に輝いていた。口はいくぶんちいさめで、あざやかな真紅の下唇が、顎といっしょに心もち前につき出していた。それはこの美しい顔の唯一の欠点であったが、そのためにかえって彼女の顔には独特の性格の強さ、というか、気位の高さに似たものが加わっていた。表情は、明るいというより、いつもはむしろきまじめな感じで、物思わしげだった。だが、そのくせこの顔には明るい微笑が、快活な、若々しい、なんの屈託もない笑いが実に似つかわしかった!

ラスコーリニコフの犯罪に関する描写が表のストーリーとすると、このドゥーニャの争奪戦は、裏のストーリーだろう。ルージンがまずこけて、スヴィドリガイロフは強烈に拒否される。そうして「熱血漢で、あけっぴろげで、生一本で、誠実で、昔話の巨人勇士のような力持ち」のラズミーヒンと結婚する。この結末に、まるちょうは大いに満足である。弁護士のルージンは、紳士気取りの魂の卑しい実務家だけど、本作ではむしろ「一種のギャグ」としてドスト氏に採用されていると思う。こんな人は、ドゥーニャには似合わない。スヴィドリガイロフは、#2で語るけど、相当に複雑なキャラである。怪物といってよい。この人とドゥーニャの「対決」は、28歳のとき読んで、それこそ背筋がゾゾゾとなる塩梅だった。それほどスリリングでため息の出るようなシーン。スヴィドリガイロフがドゥーニャを騙して自分の部屋に引き入れて、鍵をかけたんだけど、彼女は乱暴されまいとして銃を持ち出した。ちょいと長いけど引用してみる。

ドゥーニャはわれを忘れていた。彼女はいつでも射てるように拳銃をかまえた。(中略)「密告でもなんでもするがいい! 動くんじゃない! 一歩も! 射つわよ! あんたは奥さんを毒殺した、わたしは知っているんだ、あんたこそ人殺しだ!・・」(中略)「うそだ!(ドゥーニャの目は怒りに輝いていた) うそよ! うそつき!」「うそ? なるほど、うそかもしれない。うそですよ。女性にこんなことを思いださせるものじゃない(彼は苦笑を浮かべた)。きみはやはり射つだろうな、かわいらしい野獣さん。さあ、射ちなさい!」ドゥーニャは拳銃をあげた。そして、死人のような真青な顔になり、血の色のなくなった下唇をわなわなとふるわせながら、火のようにきらきらと輝く、黒い大きな目でじっと彼を見つめ、心をきめたらしく、狙いをつけながら、彼のほうから最初に動きだすのを待った。彼はこれまで、こんなにも美しい彼女を一度として見たことがなかった。

この場面。スヴィドリガイロフは、とうの昔に死を覚悟している。別な言い方をすると、ドゥーニャの愛を勝ち取るか、もしくは死、その二者択一である。だから、この麗人に拳銃を向けられても、全く平然としたものである。この「怪物」に立ち向かう「かわいらしい野獣」。いくらドゥーニャが芯の強い女だとしても、「人を殺す」という大仕事は、たいそうな重圧である。要するに、この場面はすでに勝敗は決まってるのね。スヴィドリガイロフの勝ち。彼は自分の死なんてまさに「屁とも」思っていない。しかしこの場面でまるちょうは「下唇をわなわなとふるわせながら」も、一歩も引かないドゥーニャに、惚れてしまうのだ。今風に言うと「萌える」感じね。

怒りに燃える女は美しい・・これは一般論である。「怒り」という感情は、女の眼差しを火のようにきらきらさせる。手篭めにされるという恐怖と闘うドゥーニャ。この緊張感あふれる場面は、まるちょう28歳の夏に、深く刻まれた。この対決の結末は、次回の#2に譲ることとする。#2もこの場面を中心に語ってみたい。できればスヴィドリガイロフのキャラ分析をしたいけど、そうは問屋がおろさないだろう。ドスト氏の高笑いが聞こえるようだ・・