チキンハートな俺の長い一日

今回はちょっと実験的に、私小説風に書いてみる。一応ノン・フィクションだけど、実際の体験よりは、もちろんかなり膨らませてあります。そこんとこよろしく。題して「チキンハートな俺の長い一日」。では、行ってみよう!

梅雨入り前のある朝。7時半過ぎ、俺は京都方面行きのJRに乗っていた。電車はもちろん満員で、辛うじてつり革につかまる。俺はいつも出勤時に、妻に絵文字入りのキュートなメールを送る。内容は大したことない。いわゆる「行ってきますメール」である。大したことないんだが、返信が来ないとすごく気になる。その前日、寝る前にちょっとした口論になって、険悪なムードで就寝。朝は普通に送り出してくれたものの「今日はひょっとして返信来ないかな?」と予想していた。そして実際、その日は返信メールがなかった。予想していたけど、内心うなだれる。いつもあるものがないと、虚脱感というか、体の充実感が違うのだ。「妻のシカト」に肝を冷やしつつ、iPod Touchで柿木将棋をする。こういうときは、何かに集中するに限る。余計なことを考えなくて済むから。


余計なこと・・考え始めると、きりがないこと。つまり「夫婦って何?」ということ。これを考え始めると、ほんときりがない。男と女が愛し合って、結婚して夫婦になる。ここまではややこしくない。しかし、夫婦とは別の角度から見ると「違う考え方を持った人間が、一つ屋根の下で暮らすこと」である。よく芸能人の離婚の原因に「価値観の不一致、性格の不一致」というのがあるけど、価値観が一致した夫婦なんているの? そんなのあり得ない。価値観の不一致といのは、結婚の大前提である。そこで生じる軋轢を補うのが「愛」に他ならない。愛について考える時、このうたが頭に浮かぶ。

時に愛は/オフコース



小田和正という人は、このうたで「愛」について実に精確に表現している。あーだこーだ論ずる前に、このうたを聴きこむこと。そうすれば、愛についてかなり理解できるんじゃないかな? 

午前中は京都市内のT診療所で一般外来。今日はわりと受診者が少ない。こうした時、忙しさというのは好都合である。ややこしいことを考える余裕がなくなるから。外来は13時半頃に終了。そこそこの忙しさだった♪ T診療所を後にした俺は、コンビニでパンと飲み物などを買って、K診療所へ向かう。そこで心電図を読む仕事。いつも腹部エコーの部屋でその作業をする。そこでは誰とも会うことがない。俺は独りが好きだから、その方が気が楽なのだ。他人の視線とか、儀礼的な挨拶とか、くそくらえである。そう、俺は独りが好きなんだ。じゃあ、なぜ妻と一緒になったんだろう? ふと携帯をチェックしてみる。やはり妻からのメールは来ていない。軽く凹んだ心で作業を開始する。本日は580枚なり。ほどほどの量で助かった。Yさん、いつもありがとうございます。途中、軽く眠気がありながらも、なんとか読み終える。

16時。K診療所を後にして、JR円町駅へ。おそるおそる妻へ「今から帰りますメール」を送信する。しばらくして返信があった! こうした時、メールを開けるときの緊張感といったら!(>_<) そこには短く「お疲れさまでした。帰ってゆっくり休んでね」とあった。ただし、絵文字なし。俺の脆弱なハートは、絵文字がないことだけでぐらつくのである。なんてチキンハート。こんな不安定な心のとき、このうたが頭をよぎる。

ZERO/B’z



稲葉浩志という人は、このうたで「神経症」についてうまく表現していると思う。ほんま、ゼロになりたいぜ! また考え過ぎの虫が~ じわりじわりと湧いてきて~♪ Ah! ストレス社会にとどめを刺す楽曲である。稲葉くん、偉い、凄い。眠りたいもう眠りたい~ 全部凍らせたまま~♪ 

帰りのJRでアエラを読もうとするが、集中できない。栗東が近づいてくる。妻はどんな顔をしているだろうか? もしかしてダイゴを連れて実家に戻ってたりして? そうすると、飯はどうしようか? 近くのアジアン・レストランで食うか・・ いつ頃戻ってくるだろう? もう戻ってこない? もうだめなんだろうか? 

自宅の玄関を開ける。「ただいま」と声に出してみる。すると明るい調子で「お帰りなさい」と妻の声が。その瞬間、ようやく俺はゼロに戻った。もっと強くなれ、俺! 何も言わず我々は抱擁した。俺は40代にして甘えん坊だ。なんとでも言うがいい。終わりよければ、全てよしなのだ。夕食の豚の生姜焼きはうまかった。わが妻よ、ありがとう。きみがいるからぼくがいる。こうして俺の(心理的に)長い一日は終わった。(了)

ちなみに河合隼雄という心理学者は結婚についてこう述べている。

愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。

この言葉は、作中にある夫婦についての疑問を解く手がかりになるはずだと思う。どう解釈するかは人それぞれだと思うが、多くの夫婦が「井戸掘り」について実際にイメージされることを願う。全ては世界平和のために(笑)。