半落ち(後)/佐々部清監督

前回に引き続き、映画「半落ち」をモチーフに語ります。今回は#2の「人は誰のために生きるのか?」について考えてみたい。

重大なネタバレになるけど、梶夫妻は息子の死後、骨髄バンクにドナー登録をしていて、梶は6年前に、俊哉と同じ年齢で白血病を患う少年に骨髄を提供していた。もちろん、ドナーとレシピエントは会うことは許されない。しかし、事件の約一ヶ月前の新聞に「命をありがとう」という投稿記事が掲載された。投稿者は19歳の少年で、歌舞伎町で一番小さなラーメン屋で働いているという。啓子は、この記事を見て「夫が骨髄を提供した少年に間違いない。この子は俊哉の生まれ変わりだ!」と直感する。そして、その日から日記を書き始めたのだ。

今日から私は日記を書きます。それは私自身を決して忘れたくないから。そして、私たちの命が見つかったから。俊哉が帰ってきたような気がする。でも、逢ってはいけない。それは規則だから。あの人の立場を考えたら、決して逢いたいとは言えない。

妻の後を追ってこれから首を吊ろうとしていた梶は、偶然この日記を見つける。「逢ってみたい。逢いたい。私が壊れたら、この人は一人きりになってしまう。私はこの人の絆を見つけてあげたい」・・啓子が書き綴っていた。啓子は実際に歌舞伎町にも足を運んでいた。しかし、見つからない。そのもどかしい心情が日記に記されていた。

自首するまでの空白の二日間。梶は歌舞伎町にその少年を探しに行っていた。それは、今は亡き妻のために。最愛の妻の遺志を継ぐために。その時、梶を衝き動かしたものって、何だろう? 妻を殺したのも「論理」でなければ、この歌舞伎町行きも「論理」ではない。本能に近いものだと思う。梶はそうせずにはいられなかったのだ。その行為にどれだけの価値や意味があるのかなんて、関係ない。知らずのうちに身体が動いていた、そう言った方が正しいだろう。

しかし、である。梶はこの歌舞伎町行きをひたすら隠した。それは、

*骨髄移植した少年を、メディアの暴露から護るため
*妻を殺したことに関して、言い訳をしたくなかった


この二点に尽きると思う。そして、自首してから判決を受けるまで、歌舞伎町行きを隠し徹した。そこには、鉄のような意志があったと思う。寺尾聰の表情は、ずっと生気がなくて茫漠としていて、まさに虚無そのものである。でも、妻を愛していたことと、歌舞伎町行きを「知らない」と言い張ること。この二点においては、目がカッと開いて自己主張する。虚無の中の僅かなエネルギーを絞り出すかのように。なぜならそこを護ることに、梶の全存在がかかっていたから。ここの寺尾聰の眼差しは、心が震える。

重苦しいテーマなので、すべからく全体に重苦しい雰囲気になってしまうのだが、ラストが本当に清々しく、全てが昇華していく感がある。紅葉と梶一家の懐かしい回想、そして、森山直太朗の心に染みわたる歌声。この清涼感、格別です。そうそう、寺尾聰の普通の笑顔をようやく目の当たりにして、ホッとしたぞ(笑)。それほど、作中の「虚無の表情」が焼き付いちゃったのね。

さて、検事の佐瀬と弁護士の植村は同期生で、こんなやりとりがある。

植村:おまえ、誰のために生きてるんだ?
佐瀬:自分のためさ。おまえと同じだよ。


そう「自分のために生きる」・・これは間違っていない。でも、ある意味では間違っている。人間は結局「何かを愛したい」のである。自分のためだけに生きていける人間なんているだろうか? いるとしても、そんな人生おもしろいか? 何かを愛するがゆえに、人生は味わい深いものになる。意味のあるものになり得る。上記の佐瀬の「自分のためさ」という言葉は、いくぶん自嘲気味なのかもしれない。「人は誰のために生きるのか?」・・愛するものがあるからこそ、人は生きていけるのです。本作は、この真実を誠実に描いていると思う。闇の中の光を見たような気がした。以上、二回にわたって「半落ち」について語りました。