半落ち(前)/佐々部清監督

「半落ち」(佐々部清監督)を観た。08年11月に「夕凪の街 桜の国」を観て、Blogに感想を書いた。その際「佐々部監督の代表作である『半落ち』を、いつか観てみたい」と書いたのだが、結局こんなに時間が経過してしまった。いやはや、自分の腰の重さに呆れるばかりです。遅まきながら、感想を記したい。

原作は横山秀夫の同名の小説(02年発表)であり、ミステリーの傾向が強い作品である。したがって、作品の核心に迫るBlogを書くとなると、必然的にいわゆる「ネタバレ」は避けられない。だから、本作をちゃんと味わいたいと思っておられる方は、まずDVDをご覧ください。



さて「半落ち」という言葉。これは警察用語で「容疑者が容疑を一部自供するも、完全には自供していない状態」を指す。寺尾聰演じる警部・梶聡一郎は、最愛の妻・啓子を殺害した。アルツハイマー病を患う妻に懇願されての、嘱託殺人である。しかし、自首するまでの二日間について、真実を語らない。このことが、警察、検察、弁護人、裁判官を困惑させるが、結局真実は公にされないまま、判決が下される。判決は求刑どおり懲役4年の実刑。普通にみれば、重い判決なのだが・・

さて、いろんな重いテーマが絡み合っている本作だけど、便宜上次の二点に絞って語りたい。

#1 梶聡一郎の「罪と罰」
#2 人は誰のために生きるのか?


今回はまず#1から。梶夫妻には俊哉という一人息子がいた。しかし、7年前に急性骨髄性白血病で亡くなった。当時、HLAの一致するドナーは現れなかった。その深い心の痛みを、ずっと梶夫妻は抱えていた。そうして、半年前に啓子がアルツハイマー病を発症。啓子が一番恐れたのは「俊哉を忘れてしまうこと」である。「俊哉を覚えているうちに、私を殺してほしい」という啓子の懇願。梶はこの切ない願いを拒否できなかった。何よりも妻を愛するために。

では、梶に妻を殺す「資格」があったのだろうか? それはもちろん、否である。誰だって人を殺す資格なんてあり得ない。梶も警部なんだから、それくらい分かっている。彼が妻を殺したのは「論理」ではない。「妻の苦しみを少しでも早く解いてやりたい」という一心で、梶は殺人を犯した。つまり良心の発作的な発露である。

「罪と罰」という小説がある。その中には「良心を持った人間が殺人を犯したとき、彼は同時に自分をも殺している」という思想が埋め込まれているように思う。その方向で考えると、梶は妻の首を絞めるとき、自分の首をも絞めていたのだ。こう言うと語弊があるけど、その行為をするために、どれだけの勇気が必要だったか? もちろん、殺人を肯定することはできないけど、この梶の「勇気」は、とても深い決意に根ざしていると思う。

梶は後追い自殺するつもりだった。だって、生きてる意味なんかないし。愛すべき妻も息子もいない。首を吊ろうとした時に、ふと目に留まった妻の日記。これが彼のその後の生き方を変容させた。以降の展開については、次回に譲る。

罪名は「嘱託殺人」。こうして言葉にしてしまうと、なんて断片的で無個性で冷たい響きだろう。求刑は懲役4年。予想された判決は、懲役3年に執行猶予付き。しかし、実際の判決は求刑どおりの懲役4年の実刑。これをどう捉えるか? 一般的な見方をすると「厳しい判決」ということになるだろう。梶は妻を愛していたから、殺したのだ。勇気を持って殺したのだ。

しかし、梶自身はこの判決を聞いて、少なからず「救われた」あるいは「解放された」のではないか。妻を殺してなお、自分だけが生きているという事実。これが彼の良心をどれだけ苛んでいたか。その自責の念は、どこまでも深い。この「懲役4年の実刑」という判決を決めた裁判官も、重度認知症の父を抱えていた。だからこそ、梶の心情がよく分かったのではないか。それは「厳罰」ではなく、むしろ「被告の心情をいたわる判決」だったと思う。

さて、次回は#2について語りたいと思います。