なぜ君は絶望と闘えたのか(2)/門田隆将作

前回に引き続き「なぜ君は絶望と闘えたのか」より、#2の「死刑という制度は必要なのか?」というお題で語ってみたい。もちろん、結論から言うと「必要である」となる。おそらく一般の市民の感覚から言うと、そうなるんじゃないだろうか。自分の一番愛する人を殺した人には、死を以て罪を償ってほしい。当たり前のことである。しかしこの感情は、必ずしも一般的なものではないようだ。実際に死刑存廃の世界的趨勢は、確実に「死刑廃止」の方向へ向かっている。Wikiによると、右図の中で赤く塗ってある国だけが、過去10年間に死刑を執行している。青く塗ってある国は、あらゆる犯罪に対する死刑をすでに廃止している。さて・・死刑存廃問題について公平に書こうとは、特に思わない。第一、私は学者じゃないし。死刑廃止論者の著した本を読んでもいない。だからこれから書くのは、本書を読んだ後、あくまでも直観的に考えたことです。あしからず。


前回は、本村洋さんのサイドから事件を振り返った。今回はまず、犯人Fの生育歴に触れておきたい。Fの両親は見合いで結婚。その翌年にFが生まれた。二年後には弟が生まれている。外から見ると平凡に見えるこの一家は、父親の暴力が支配する家庭だった。Fが12歳のとき、母親が自宅ガレージで首つり自殺して、家庭は瓦解した。母は享年38歳。原因は父の暴力であったと推察されている。

暴力をふるい、賭け事に給料を投じる夫のことを、母親はたびたび実家に相談していた。実家から内緒でお金を借りたり、兄弟の子供服を買ってもらったりしながら、「暴力がひどいので別れたい」と、繰り返し実母に訴えていたという。近所にも、父の怒鳴り声や暴力を振るわれた時の母の悲鳴が聞こえたこともあった。タンスに紐をかけて首を吊ろうとするなどの自殺未遂を行い、それを発見したFや弟が「お母さん、死んだら嫌や」と止めたこともあった。

Fが中学一年生の多感な時期に、母は自殺した。Fは、第一発見者である父親が台所の板の間に横たえた母の遺体を呆然と見ている。Fは「おまえが勉強せんから、お母さんは自殺したんや」と、父親から聞かされたという。そのわずか三年後、父親はフィリピン女性と再婚。事件の三ヶ月前にには、父と義母の間に赤ちゃんが生まれたばかりだった。

父親とは、一緒にゲームセンターに行ったり、将棋を教えてもらったり、釣りに行ったりする良好な関係がある一方、F自身も暴力を受けていたことが、のちの裁判で明らかにされている。Fは高校入学後には、家出や不登校を起こし、事件の前年(高校三年)の四月に、同級生宅に侵入し、ゲーム機などを盗んだとして高校から自宅謹慎処分を受けている。

以上の簡単な生育歴から読み取れる状況としては、Fのアイデンティティの未熟さ。父親が、ひとことで言うと人格崩壊者だったことがうかがえる。自己中心的、短絡的、強圧的・・要するに、彼の家庭はDVの温床だったわけね。そんな環境で、子供のアイデンティティは育成されるはずが無い。しかも、まるちょうの洞察では、F自身が父の遺伝子を受け継いでいるように見受けられる。ひとことで言うと、衝動的で本能をコントロールすることが苦手なタイプね。したがって、社会性が育ちにくい。要するに、F自身不幸な人間なのである。事件が起こるまでの18年間、辛いことが多かった。

しかし・・しかしである。こうしたFの不幸な生育歴が、彼の重大な罪を酌量するに足るとかいうと、答えはノオである。確かに不幸な青年だけど、だからといって何の罪もない女性を殺し、姦淫して、更にその子を惨殺する権利は全く無いのだ。結局「それとこれとは別」ということになる。彼は命を以て贖罪する以外に、採るべき道はないのだ。

本村さんは「Fの死刑を勝ち取る」ことを心の支えとして、9年間生きてきた。それこそが、今は亡き妻子への償いであり、自分の存在価値であると考えてきただろう。ある意味「Fへの怒り」を薄れさせずに保ち続けることこそが、本村さんを支えてきた。人間の「怒り」という感情はとても根源的なもので、「怒り」のない人間は己の正義を貫くことができぬ。「怒り」を曖昧にする人は、深く生きることはできない。「怒り」という感情の彼岸に、死刑という処罰があるのは自明である。つまり死刑とは、人間という存在の深淵に関わる制度なのだ。もちろん濫用あるいは政治的な利用などはあってはならないけど、死刑という制度を完全に無くするのって、どうなんだろうか?

死刑廃止論で一番疑問なのは、死刑廃止論者がもし、自分の一番愛する人を惨殺された場合「死刑廃止」の立場を取り続けることが可能なのか?ということである。そうした極限状況で、やはり「あなたは私の一番愛する人を殺した。でも死なずに更生を目指して生きてほしい」という理性的な立場を取れるのか。私は大いに疑問だと思う。人間の「怒り」は、それほど簡単なものではない。やはりどこかに「目には目を、歯には歯を」的な思考が心の奥底に潜んでいる気がするのだ。その方がよほど「自然」だと思うし。上記の「理性的な姿勢」には、どこか取ってつけたような欺瞞を感じてしまう。以上より、まるちょうは「死刑廃止」には、違和感を感じざるを得ない。死刑という制度は刑罰の選択肢として、ずばり必要だと思います。以上、二回にわたり「なぜ君は絶望と闘えたのか」の感想を記しました。