十五才 学校4/山田洋次監督(2)

前回に引き続き、映画「十五才 学校4」をネタに語ってみたい。今回は#2の「結局『学校』ってなによ?」というお題で。

本作の中で、たまたまヒッチハイクで乗せてもらった宮崎在住の女性ドライバーの息子が引きこもりで、部屋でジグソーパズルばかりしている。時代小説ばかり読み耽り、自分は素浪人のつもり。家族にも、なかなか心を開こうとしない。そこへ主人公の横浜からヒッチハイクでやってきた少年と一緒になり、なにか共通するものを直感する。そうして、次第に打ち解け、引きこもっていた部屋に一緒に寝て、いろいろ語り合うことに。

少年たちが別れる場面で、プレゼントを交換する。引きこもりの少年が渡したジグソーパズルの裏面に記された詩を読んで、母は思わず嗚咽する。

草原のど真ん中の一本道を
あてもなく浪人が歩いている
ほとんどの奴が馬に乗っても
浪人は歩いて草原をつっきる
早く着くことなんか、目的じゃないんだ
雲より遅くて十分さ
この星が浪人にくれるものを
見落としたくないんだ
葉っぱに残る朝露 流れる雲
小鳥の小さなつぶやきを聞き逃したくない
だから浪人は立ち止まる
そしてまた歩き始める

引きこもりの少年の内面は、これだけ豊かでちゃんとした矜持で満たされていた。シングルマザーの母親は、自分の息子がこんなことを考えていたことを、全く把握できていなかったことに愕然とする。そして横浜から家出してきた少年に、心から感謝するのだ。

「出来すぎた話」とのツッコミは、ここではナシとして、このエピソードの本質に迫ってみたい。主人公の少年は自分の力で、この引きこもりの少年との邂逅を果たし、その内面を引き出して、その母親から感謝されるほどの「大役」を果たしたのだ。上記の「詩」は横浜に帰っても、座右の銘となり少年の胸に刻まれる。この時の少年の達成感ってどんなだろう? このエピソードで少年は共感し、大いに学んだ。そして「僕が僕であること」を実感しただろう。

「学校」の存在意義っていろいろあると思うけど、一番大事なのは人間関係を学ぶことじゃないかな? 友達とか、先生とか、上級生、下級生、そういった関係。不登校の子供にとって一番不幸なのは、この「人間関係の勉強」が寸断されることだ。アイデンティティが曖昧な少年期に、この「孤独感」を味わうのは、とても辛いことだと思う。主人公の少年は、その「人間関係の勉強」を荒っぽい自己流のやり方だけど、しかとつかみ取ることに成功したのだ。いやはや、あっぱれ。

結局「学校」ってなんだろう? 漢字を覚えたり、九九を覚えたり、いろいろ勉強はある。しかし総合的に言うと「社会の中で生きていくスキルを身につける場所」という定義が一番相応しいと思う。山田洋次が言いたかったのは、そうした「スキル」は「校舎」でなくても学べる、ということ。すなわち「学校」は広い意味では、どこにでも存在しうる、ということではなかったか。旅は広い意味で「学校」である。いわゆる学校よりも、ずっと主体的に学べる「状況」である。

もちろん、いわゆる学校も大事。ある程度レールに乗ることは人生を安定させるし、親も安心。ただ、子供が旅に出ようとする時、親はむやみにそれを止めてはいけないんだと思う。子供を心配する気持ちにじっと堪えて、見守るのが一番よいのだろう。本作の最後で両親(特に父親)との再会のシーン。父親は「一回り大きくなって帰ってきた息子」に対して、ちゃんとリスペクトしている。ここで頭ごなしに叱る親は、ずばり失格だ。「よく戻ってきた」とねぎらうのが、親というものだろう。

さて、中田英寿が引退の時に「人生は旅のようなものだ」と言っていたのを思い出す。旅は学校であり、人生である。学ぶのを止めたとき、人生は終わる。人生を旅する者は、常に若い。そういった人の心の中心にあるのは「勇気」だろう。本作の少年も、家を出る時は「えいっ!」という途方もない思い切りが必要だったに違いない。「勇気」って、年を取ると共に少なくなると思うのね。まるちょうは42歳になり、ちょっと守りに入っているか? でも何歳になっても「えいっ!」という気持ちは、忘れずにいようと思う。いつまでも「人生を旅する」ために。

最後に、この映画を紹介してくれた父に感謝します。以上二回にわたり「十五才 学校4」について語りました。