十五才 学校4/山田洋次監督(1)

「十五才 学校4」(山田洋次監督)を観た。今年の春頃だっただろうか、ある日実家に帰ると、78歳になる遅咲き電化オタクの父から、一枚のDVD-RAMを受け取った。「これええよ、観てみ」。受け取った時は「なんかめんどくさそうやなぁ」と、一応受け取ったという感じ。帰ってから内容をチェックしてみると、わがiMacでは全く受け付けず、寝室のビデオデッキで辛うじて映った。「十五才 学校4」かぁ~・・ダイゴが16才だし、イントロはいい雰囲気。でもiMacで観れないし、第一感「このままお蔵入りかな?」と思った。

それから数ヶ月たち、ダイゴが夏合宿にて夫婦水入らず。行きつけのイタめし屋さんで食べて、それからどうする?という状況になった。TSUTAYAに寄ってDVDわざわざレンタルしにいくのもめんどい。いったん帰宅後「そうそう、これがあった!」私の書棚から古ぼけた父のDVD-RAMを見つけだした。そうしてその晩は、本作を夫婦で観たのだった。

本作を夫婦で観て、感動せずにはいられなかった。観終わった後、二人とも言葉少なだったけど、二人とも合宿に行っているダイゴのことを思い浮かべていただろう。父が薦めてくれた訳が、なんとなく解った。その夜は、クーラーの設定温度をいつもより1度下げたことをよく覚えている。それだけ二人の体温が上昇したというか。そんな作品です。



次のふたつの軸で、二回に分けて語ってみます。

#1 「かわいい子には旅をさせよ」の精神
#2 結局「学校」って何よ?


今回は#1について書きます。本作は「学校」というタイトルながら、学校の風景はほとんど描かれない。不登校で苦しむ中学三年生の少年が、一念発起して屋久島の縄文杉を観ようと、ひとりヒッチハイクの旅に出かける。「冒険の旅に出かけます」とのメモを家に残して。もちろん両親は大騒ぎだけど、その過程で出会った様々の人の温かさ、強さ、苦悩、etcを感じ取って、少年は成長していく。

なぜ学校に行かないのか? 少年は、旅の途中で出会う大人たちに、そのやるせない心情を吐露していく。屋久杉へ向かう途中での彼の言葉。

大人の言うことは矛盾してるよ。「人間は個性的でなくちゃいけない、一人一人みんな違うんだ」じゃあ僕は僕のやり方で行こうとすると「なんでおまえはみんなと同じことができないんだ」と怒るんだ。あれもやっちゃいけない、これもやっちゃいけない、やっちゃいけないことが多すぎて、しかも、あれやれこれやれ、やらなくちゃいけないことが多すぎる。ほんとに疲れるんだよな。

そんな少年の言葉に、旅の道中で一緒になった名もなき中年女性は、優しくこう答える。

いいんだよ、学校に行くか行かないかは君の自由なんだから。ただね、人間は一人前になんなきゃいけないのよ。どんな方法であれ、一人前になる努力をしなくちゃいけないのよ。

一人前ってなんだろう? このシーンで少年がその中年女性に「一人前ってどういうこと?」って訊いたら「屋久杉に訊いてみたら?」とはぐらかされた。考えてみると「一人前」という言葉は、なかなか難しい。まるちょうだって限定的には一人前のような気もするが、それで満足かというとそうではない。要するに大事なのは、WhatではなくHowなんだろう。いかに「一人前」をめざすか。主人公の少年にとっての第一歩は「自分を好きになること」だったんじゃないかな? この旅で、少年は「自分ってわりとできるやん!」という自己肯定感を持ったと思う。15才少年の荒んだ心で旅立ち、そうして成長していく姿をみて、まるちょうはとても素敵だなぁと思った。16才の息子を持つ親として、感慨深いものがありました。

総括。旅は人間を成長させる。まるちょうもずいぶん一人旅をしたけど、旅によって教えられたものは、学校での授業とはまた別物。旅での失敗が特によい教師になると思う。旅における出会いと別れも、かけがえのない経験。旅しているのは他でもない自分だからね。息子を想う心とともに、自分の青春時代も懐かしく想い出してしまった。山田洋次監督は、質の高い作品をコンスタントに作る希有な映画人だと思う。本作もよくできてる。思春期の子供を持つ親御さんには、超おすすめです。

次回は#2について語ってみたい。