天才であることはそんなに大事なのか?

「村上さんのQ&A」のコーナー! 今回も「そうだ、村上さんに聞いてみよう」から、質疑応答を抜粋して考察してみる。

<質問>僕が最も敬愛するジョアン・ジルベルトについて春樹さんのご意見をお伺いできればと思います。僕は、個人的には、ジョアンはチャーリー・パーカーやジャコ・パストリアスやグレン・グールドと肩を並べるくらいの「天才」だと思っているのですが、いかがでしょうか? 27歳(男)、趣味でエレキベースとボサノヴァギターを少々弾きます。

<村上さんの回答>こんにちは。僕は何を隠そう、ジョアン・ジルベルトの隠れた大ファンで、彼のアルバムはほとんど持っています。彼の音楽のテイストは実に見事だと思います。ただ個人的には、この人を「天才」と呼ぶのはちょっと難しいだろうと思っています。ボサノヴァでいえば、オリジナルという意味で「天才」に近いのはむしろカルロス・ジョピンじゃないでしょうか。僕はスタン・ゲッツの圧倒的なファンですが、彼を「天才」だとは思いません。息をのむほど美しい音楽を一貫してつくりあげてきた希有なミュージシャンだと見ているだけです。「天才」であることはそんなに大事なのか、というのがここで僕の言いたいことです。地上で苦闘する音楽もまた素晴らしいものです。


<まるちょうの考察>ボサノヴァに詳しくない方に説明すると、ジョアン・ジルベルトはボサノヴァという音楽ジャンルを創成した偉大なミュージシャンのひとりであり、「ボサノヴァの神」と呼ばれることもある。そしてスタン・ゲッツはジャズのサックス奏者。1963年にジョアンと共にボサノヴァの名盤「ゲッツ/ジルベルト」を発表してグラミー賞4部門を独占した。

さて本題に入る。村上さんがおっしゃる「天才であることはそんなに大事なのか?」という論点を掘り下げて行きたい。まずは「天才ってなによ?」というところから、話を進めるべきだろうか。ものすごく噛み砕いて言うと「自分との距離感が、あまりにもかけ離れている時に使う言葉」と定義できるだろうか。要するに「天才」という言葉には、客観性が欠如している。すごく相対的な言葉だと思う。ある人に言わせれば、村上さんだって「天才作家」だろうし、別の人に言わせれば「努力型、実践型の作家」という評価になるだろう。

結局「天才」という言葉は普通、歴史が優秀な故人に与える一種の「称号」なのだ。ある有能な人間の業績を後世の人々が評価し、その故人の「神話」が成立した時に「あの人は天才だった」という賛嘆が交わされる。この場合、歴史は古ければ古いほど「天才」という言葉の重みは増すと思う。「天才」という言葉の真贋を表すひとつの要素として、「時の洗礼に耐えたかどうか」というポイントはあるように思う。

したがって、今現在生きている人を「天才」呼ばわりするのは、ある意味で間違っている。天才かどうかを判定するのは、あくまでも将来の人々なのだ。では何故、今生きている人を「天才」扱いするのだろうか? まるちょうは、ひとつの見方として、このように考えます。「凡才」がある人を「天才」と呼ぶとき、そこに一種の「差異化」が為される。凡才は天才には、どうあがいてもなれない。この諦め。努力の放棄。自己評価の低さ。これが根底にあると思うのね。視線が上を向いていない。まるちょうは、そのへんが胸くそ悪いのです。結局これって、一種の差別なんだよね。「俺とは違うものを持っているあいつ」という差別だ。

若い人が「神だ!天才だ!」と軽く言うのをよく耳にするけど、彼らは上記の差別性について、ほとんど意識していないだろう。そうした「神、天才」という言葉は、ほとんどが時の洗礼によって消えて行くのに。とても無責任だと思う。まぁ無責任な世代と言ってしまえばそれまでだけど。 まるちょう的に解釈すると「天才であることはそんなに大事なのか?」という村上さんの言葉は、上記のような「怒り」が込められているように推測するんだけど。村上さんは、スタン・ゲッツを「地上で苦闘する音楽もまた素晴らしい」と評したけど、村上さん自身も「地上で苦闘している」という感覚で、仕事しているんじゃないかな? どんな優秀な人も現人神になった瞬間から、駄目になって行くんだろうと思う。地上で苦闘してなんぼ。まるちょうはそう思いたいです。

以上、村上さんのQ&Aのコーナーでした。