MW(ムウ)/手塚治虫

「MW(ムウ)」(手塚治虫作)を読んだ。本作の一番の特色は「あの手塚治虫先生が、悪のヒーローを描いている」ということ。「鉄腕アトム」とか「ジャングル大帝」とか「リボンの騎士」なんかが想起される手塚先生だけど、本作はそうした「正統派の漫画」とは真逆の「おぞましい悪が勝つ」内容になっている。たぶん、正義感の強い人がこれを読んだら、それこそ嫌悪感のあまり嘔吐してしまうんじゃないかな? しかしまるちょうは、だからこそ惹かれる。何故あの大先生が、わざわざこうした作品を残そうと思ったのか。その動機からして興味深いではないか。実際読んでいる最中は、一種独特な没入感、もっと言えば「中毒性」を感じてしまった。そうしたものを、今回のBlogで整理できればいいと思う。ついでながら、4日から本書を原作とした邦画が封切られるようです。このタイミングは、全くの偶然です。念のため。

みなさんは「ピカレスク」という言葉をご存知だろうか? ピカレスクを邦訳すると「悪者」。本作はピカレスク漫画と称していいだろう。悪者が縦横無尽に世界を駆け巡り、ありとあらゆる悪事を働く。人を殺し、女を犯し、盗み、誘惑し、堕落させ、破壊する。その根本にある思想は何か? まるちょうは、ずばり「破滅願望」ではないかと思う。
本作の主人公、結城は10歳の時に毒ガスのMWを吸って大脳が冒され、知能は進んでも一片の良心もモラルもない人間となってしまった。彼の心に「悪魔」が入り込んだのだ。MWを隠蔽した関係者やその家族を皆殺しにしていく過程は、一種の「復讐」だけど、次第に「人を殺す事自体を楽しむ」ようになってくる。MWを獲得して、できるだけ大量に殺戮したい。意味なんかない。ただ殺したいだけ。ニヒリズムの極み。

要するに結城は「悪魔の化身」なのだ。では、手塚先生の中での「悪魔」のイメージとは? ずばりひとことで言うと「しなやかな頭脳と妖しい肉体を持つ両性具有の存在」。MWというネーミングからして「Man&Woman」という仕掛けを連想させる。結城は、男女問わず心の弱い部分に忍び込んで、惑わし陥れて離れなくする。そこは正義のかけらもないグロテスクな世界。人間の奥底に眠っている「悪い欲望」を満たして、堕落させるのだ。手塚先生は結城のキャラとして、何らかの「超越したもの」を付加したかったに違いない。そうして「悪魔の化身」たる強力な存在感を持たせることに成功した。

ピカレスク・ロマンの魅力って何だろう? 魅力があるからこそ、手塚先生もこうした作品を残したはずだ。まるちょうの分析はこうだ。前述の「破滅願望」という代物は、どんな人の心にも潜んでいる。もちろん奥深くに。表層的に正義感の強い人ほど、その「真実」は隠蔽されている。しかし、本書のようなピカレスクが、読者の「破滅願望」を覚醒させる。「上昇」という過程が相当にしんどいのと逆で、「破滅」はすこぶる心地よいものだ。あらゆる快楽が「破滅」と関連していることを想起して欲しい。結論が見えてきましたね。そう、ピカレスクの存在意義とは、読者の隠蔽された「破滅願望」を仮想的に満たして、ささやかな快楽を生みだすことだと考える。まるちょうも本作を読んで結構夢中になったけど、知らず知らずのうちに自分の脳内で「堕落」が起こっていたのではないか。その「堕落」に無意識の中で陶酔していた・・というのが自己分析です。

例えば、正義感が異様に強い人などは、ピカレスクに対して嫌悪感を抱き嘔吐すると記したけど、心理学的にこの現象を記述すると以下のようになる。つまり、ピカレスクを読んで当然、自分の隠蔽された「破滅願望」が覚醒する。しかしそれは、自分にとって「都合の悪い真実」に相違ない。そこからアイデンティティが不安定となり、根源的な不安感から嘔吐などの症状が出現する。「正義感が強い」というのは、まるちょうに言わせると「正義の仮面を被っている」のと同義である。人間である以上「正義そのもの」にはなれないのだから。「正義そのもの」になれるのは、神だけである。

正義の仮面を被った登場人物として、神父の賀来が描かれている。結城という絶対的な存在に対する、凡庸の象徴、あるいは「迷える羊」たる人間の象徴。しかし、凡庸は凡庸で、悩み苦しみ「悪魔の化身」に真っ向から挑みかかる。善と悪の対決・・しかし善は弱く、悪は強い。その真理を、本書は「これでもか!」という感じで描いている。

ピカレスク漫画だから仕方ないけど、最後に悪が勝つのは、やはりしっくり来ない。ラストで結城が兄に化けて「ニヤリ」とほくそ笑むシーン。これを観てしっくり来る人は、ある意味で人生を投げている人かもしれない。「どうせ悪には勝てない」と諦めている人。究極的には「悪」に勝てないとしても、うまく付き合っていく事はできるんじゃないか? 「悪」は程よく道具として使って、生きる糧にするという姿勢はどうだろうか?「悪」はスパイスとしてなら、十分に存在価値があると思うんだけど。しかし、主たる調味料としては使用してはいけない。「悪」をコントロールして使用すること。難しいけど、生きる上で永遠のテーマではないかと思います。

最後はややとりとめなくなりましたが、「MW」を読んで感じた事を記しました。